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TOKYO人権 第94号(令和4年5月31日発行)
特集
同和問題(部落差別)の解消を目指して被差別部落の人たちが集い、全国水平社を創設してから2022年3月3日で100年を迎えました。「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と掲げた水平社宣言は、差別や偏見に苦しむ人たちを励まし、その理念は、日本の人権運動をけん引してきたとも言われています。
戦後、基本的人権を保障する日本国憲法の下で、同和問題については、当事者団体による運動や国をはじめとする行政の施策を通して、改善も見られました。一方、今日の人権状況が十分かと言えば、そうとも言えません。水平社創設100年を機に、同和問題に詳しい研究者とジャーナリストのお話から、これからの未来をどう見つめていけるか考えてみたいと思います。
1922年の全国水平社の設立からさかのぼること約半世紀。1871年に明治政府は、エタ・非人などの賤民制(せんみんせい※1)を廃止した。にもかかわらず、旧賤民に対する差別はなくならなかった。水平社の創立大会に参加したある人物は、当時の心境を次のように語っている。
「そのときの気持ちはうれしいというか恐ろしいというか、何ともいえない気持ちでした。我々はそれまで部落のことを隠そう隠そうとしていたのに、自分の方から看板かかげて、大会を開くというわけでしょう。何でそんなことをするのかという思いと、何とかせにゃならんという期待が入り交ざった、何ともいえない気持ちでした。会場に行っても、入ろうかこのまま帰ろうか、だいぶ逡巡(しゅんじゅん)しました」(『証言・全国水平社』福田雅子、日本放送出版協会、1985年)
被差別部落※2で生まれ育った私は、この複雑な心境がよくわかる。負の歴史の副産物である被差別部落(民)は、本来はあってはならない存在だ。なくなったはずの賤民が、差別を媒介として残ってしまったのだから。
水平社創立大会の当日に配布された「宣言」には「吾々がエタ(原文ではエタの文字の隣に〇がつく)である事を誇り得る時が来たのだ」と記されている。私たちは旧賤民=部落民ではないと否定したのではなく、肯定した。部落解放運動は当初から、なくなったはずの存在を認めることから始まった。
部落は差別があるから存在するのだが、反差別運動もそれを残してきた。差別反対を訴えるためには、自分のルーツを認めざるを得なかった。私の祖父ふたりは、水平社が設立された翌年に、差別発言に抗議したため弾圧を受け、有罪判決を受けた。
それから半世紀―。
「君たちも差別を受けるかもしれない。差別に負けないよう地域の歴史を学ぼう」
地域住民や教師にそう言われて、私は育った。自分のルーツを頭の片隅に置きながら、大人になった。どんな立場の人であっても、自らのルーツを受け止めることは大事である。それを踏まえて自分がどう生きるか、生きたいかを考えることは重要ではないか―。私はそう考えるようになった。その意味で、水平社創立や祖父たちの闘いには意味があった。
これまで見てきたように、部落民とそうでない者を分ける重要な要素のひとつは、ルーツである。「あなたたちと何が違うのか」と部落民は「同一性」を訴えてきたが、私は部落問題を「違い」「多様性」として語るべきだと考えている。というのも、たとえば私は、よくも悪くも、部落にルーツを持つ者として物事を考えている。この私もまた、歴史の副産物なのである。問題は、ルーツに優劣を持ち込むことであろう。
「私の身近に部落民はいない」「部落差別なんて聞いたことがない」。部落問題の話になると、そう言いつのる人がいる。自分に「身近でない問題」は、いくらでもある。地域、世代、可視・不可視、教育、無関心などの要因によって、各問題との距離は異なる。
だが、身近でないと突き放した瞬間に、多様な人びとによって成り立つ社会が、自分から遠ざかってしまう。たとえば日本国籍を持つ私が、外国人問題、あるいは海の向こうの戦争は、身近ではないと考えることはいいことなのだろうか?
日本で東京ほど多種多様な人間が住む都市はない。わたくしごとを言えば、身内を含めて、被差別部落にルーツを持つ人を何人も知っている。身近に「身近でない人」がいることを頭の片隅におく。それが多様な社会を認め、その一員である自分が生きやすくなる第一歩だと私は考えている。
角岡 伸彦(かどおか・のぶひこ)さん
フリーライター。1963年、兵庫県生まれ。関西学院大学を卒業後、神戸新聞記者を経てフリー。著書に『被差別部落の青春』『ふしぎな部落問題』『はじめての部落問題』など。
東京の同和問題の現状は、都市化の進行などにより「明確な把握が極めて困難」と言われています。実態が見えづらい同和問題をあらためて知ることの意味を、社会学者で同和問題を専門に研究されてきた野口道彦さんに伺いました。
水平社の創立は、差別を受けてきた人たちが自分たちの手で差別をなくす運動として立ち上げたという点で、当時の社会状況の中では大いに評価すべきだと思います。水平社創立をきっかけに、これまでの100年でさまざまな運動や取り組みが起こりました。
今では、同和問題を具体的に身近に感じたことがない※3という人が多く、東京では、「同和地区は少なく、同和地区出身者も多くはない」と思われています。しかし、明治以来、全国各地の同和地区から東京に移り住んできた人は多く、その人たちの多くは同和地区出身ではない人と結婚しています。子どもにも語り継がない人がほとんどなため、「私は関係ない」と思っていても、実際には2分の1、4分の1、16分の1など同和地区にルーツを持つ人も多いのではないでしょうか。
では、なぜ語り継がれないのでしょうか。同和地区出身であることをネガティブに捉える意識が今でも存在するからです。こういった意識がなくなれば、同和地区にルーツを持つことを語ったとしても、何の問題もないはずです。
各地の市民意識調査では、同和地区出身者との結婚を避けるという回答が、2割から3割ほどは見られます。同和問題に対する予断と偏見が理由でしょう。他人からどのように見られるかを気にして、同和地区出身者と思われるような「印」を遠ざけています。これが差別を存続させているのです。結婚に限らず、同和地区と思われるところに住みたくないという人や、部落産業として発展してきた職業を避ける人もいます。「自分には関係のない話として遠ざけておこう」としているのです。
同和問題では、根拠のない噂(うわさ)話がまことしやかに伝えられていくということが起こっています。例えば、周囲の誰かから「あそこには近づかない方がいい」といった噂話を聞いたとき、疑問を抱かずそのまま受け入れてしまうことはよくあることです。そんな話を聞いたときは、一歩立ち止まって「それは本当かどうか」と考え直すことが必要でしょう。他のマイノリティ問題でも、噂話から差別が生まれることがあります。噂話を受け入れて、それを他の人に伝えていくと、知らず知らずのうちに差別に加担してしまいます。
「同和地区出身」と名乗っている人は非常に少なく、身近な問題として実感しにくいところがあります。出会ったことがないから、「特別な人なのではないか」と勝手に想像してしまうのかもしれません。「私は、同和地区出身ではない」という思い込みを捨て、「ひょっとすると私も同和地区にルーツがあるかも」と想像してみる冒険をやりませんか。そうすれば、同和問題(部落差別)の理不尽さが分かってきます。自分も含めて色々な背景を持つ人がいるのだと意識し続けていれば、見方は自ずと変わってくるはずです。
野口 道彦(のぐち・みちひこ)さん
大阪市立大学人権問題研究センター名誉教授(社会学)、一般社団法人和歌山人権研究所理事長。1945年生まれ。著書に『部落問題論への招待』『部落問題のパラダイム転換』など。
<注釈>
※1 法的身分制度によって賎民を最下層民として位置付け、社会的賎視を固定化する制度。1871年の太政官布告(解放令)により、賎民制度は法的には廃された(平凡社『百科事典マイペディア』より)。
※2 おもに近世における賤民的身分に起因して差別を受けている人々が居住する地域をさす。近代以後の政策による移転や流入等によって必ずしも近世の賤民居住地域と一致するわけでない(小学館『日本大百科全書』より)。「同和地区」とほぼ同じ意味で使われている。
※3 東京都総務局人権部『人権に関する都民の意識調査 報告書』によると、同和問題を知ったきっかけを問う設問に対し「同和問題を知らない」の回答の割合が20.4%という結果が出ている。
https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/10jinken/sesaku/ishiki/index.html<外部リンク>
インタビュー・執筆 吉田 加奈子(東京都人権啓発センター専門員)
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