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TOKYO人権 第109号(2026年3月27日発行)
インタビュー
2026年5月、水俣病(みなまたびょう)は1956年の公式確認から70年となります。チッソ水俣工場(※1)の排水に含まれていたメチル水銀が、魚介類を通じた食物連鎖によって不知火海(しらぬいかい)沿岸一帯の人々の命と健康を奪い、差別を生み、地域の絆(きずな)を破壊しました。
今回お話を伺った吉永(よしなが)理巳子(りみこ)さんが暮らす水俣市の明神(みょうじん)は、水俣湾を囲むように細長く突き出た岬にある小さな集落で、水俣病多発地区の一つです。
吉永 理巳子(よしなが・りみこ)
1951(昭和26)年6月生まれ。熊本県水俣市明神町在住。3歳の時に父・二芳(つぎよし)さんが劇症型水俣病を発症し、5歳で死別 。祖父も水俣病で亡くし、祖母と母も認定患者となる。1997年より水俣市立水俣病資料館の「語り部」となり、現在は「水俣病を語り継ぐ会」代表、「水俣・差別偏見を考える会」代表などを務める。2024年、母をモデルにした紙芝居『みつこの詩』で第62回五山賞特別賞を受賞。

私は水俣市明神で生まれ育ちました。かつては家の庭先から石段を下りればすぐ水俣湾が広がっていましたが、今は埋め立てられてしまいました。海ではベラ、コノシロ、ボラなどがとれて、畑では野菜や綿花などを育て、アコウの木や椿(つばき)が茂る豊かな村でした。祖父は漁師で、父はチッソに勤めており、祖母や母は家で畑仕事をする生活でした。私は姉や兄たちと海で泳ぎ、カニや小魚を釣って遊ぶのが日常でした。
異変は水俣病が公式確認される前から始まっていたといいます。海からは異臭がして、魚が浮き、岩場の牡蠣(かき)が口を開けて死んだと母から聞きました。兄たちはフラフラと泳ぎながら足元にきた魚を手で捕まえたと言います。我が家で飼っていた猫は、こたつの中からよだれを流しながら出てきて、障子や壁にぶつかり庭に出ていき、アコウの木の前でクルクルまわって海に落ちていきました。
当時、家が4軒しかなかった明神で最初に発症したのは、私と同じ3歳だった子どもで、箸を持てなくなり、歩けなくなりました。続いてその父親が発症して亡くなり、その3か月後に、私の父も口の周りのしびれを訴え始めたのです。父はチッソ附属病院に1年ほど入院し、自転車に乗れるくらい元気になったので退院しました。しかし、せっかく元気になったのに、家で再び魚を食べ始めたことで症状がひどくなりました。激しい痙攣(けいれん)に襲われ、言葉も出なくなって。再入院して20日後の1956年10月、父は38歳で亡くなりました。その当時、末っ子の私は5歳でした。その後、祖父も発症し、家で寝たきりの生活を送った後に亡くなり、我が家は働き手を2人とも失ってしまいました。
その頃、水俣保健所から猫を飼ってほしいと頼まれて500円をもらった記憶があります。猫も人も同じ魚を食べていますから、猫が発病するか調べていたようです。すでに魚が原因じゃないかと疑われていたんですね。その時に排水を止めてくれていればと思います。

明神から望む不知火海。 チッソ附属病院にて。父・二芳(つぎよし)さんが他界する1年ほど前
対岸の島影は天草。 に撮られた家族写真。母・ミツコさんの前にいるのが理巳子さん
通学路には、チッソ水俣工場が水俣湾に排水を流していた百間(ひゃっけん)排水口がありました。そこを通ると、白や茶色、ときには群青色の排水が流れ、鼻をつく匂いがしたことを覚えています。父が亡くなった頃はまだ水俣病の原因が特定されておらず、「奇病」とか「恐ろしい伝染病」「腐った魚を食べるからだ」と言われていました。そして、私が小学3年のころ、漁師の人たちがチッソに漁業補償を求めて「暴動」を起こします。町の人たちは「漁師たちが(水俣の経済を支えている)チッソをダメにしてしまう」「患者はけしからん」と思うようになりました。
明神ではどの家族にもそれぞれに病人がいたので、差別されるような嫌な思いはしませんでしたが、私は小学校や中学校で「明神から通っている」とは言えませんでした。父が水俣病で亡くなったことや家に寝たきりの祖父がいることも友だちに話しませんでした。
私にとって水俣病(※2)が「怖い」と思ったきっかけは、1967年、テレビで新潟水俣病の裁判が大々的に報じられた時です。水俣では公式確認から10年以上が経ち「水俣病はもう終わった」と思われていたのですが、1969年、熊本でも裁判が始まります。裁判を起こした患者さんたちは、見た目では父たちのような重い症状に見えませんでした。そのため、テレビを見る人には『チッソに補償金を求めて、私たちの生活を支える大切な工場をつぶそうとしている』と映ったと思います。当時高校生だった私は「水俣病のことは早く終わってほしい」と思っていました。その後も私は自ら水俣病について知ろうとはしませんでした。
国が水俣病を「公害病」に認定し、チッソの責任と原因を正式に認めたのは、父が亡くなってから12年後の1968年です。父が亡くなった時、母はまだ20代後半。18歳で嫁いできて、わずか10年で、幼い私たち4人の子どもと義母、水俣病で寝たきりの義父を抱え、一家を支えなくてはなりませんでした。
父が亡くなって数年後、母は寒い冬空の下、互助会(※3)の人たちと一緒にチッソで座り込みをしたそうです。「どうにかしてほしくて、チッソの社長さんに取りすがったら、警察官に革靴で足をけられた」と、だいぶ経ってから話してくれました。
母は、生き抜くために土木作業の現場で働き、私たちを育ててくれました。60歳の頃、農作業中の事故で片足を切断する重傷を負いましたが、そんな状況さえも「足が先に棺桶(かんおけ)に入った」と笑い飛ばし、義足にビニール袋を被せて畑仕事を続けるような、たくましく明るい人でした。

母が生き抜いた強さを子どもたちに伝えたい。
理巳子さんが作話を担当した紙芝居『みつこの詩(うた)』
小学生の頃から40年ちかく、私は自分の家族の水俣病のことを隠してきました。私たち兄弟姉妹は誰も認定申請をしたことがありません。私は小さな頃からこむら返りがよくあったり、肩が鉄板みたいに凝ったりしますが、みんな同じだと思っていました。明神のおとなたちが水俣病に認定されても、私たち子どもたちの健康被害を病院で調べるなんて言われたことは一度もないんです。ですから、水俣病は父や祖父たちのような劇症型のことだと思っていて、この程度の自分の症状は水俣病のはずがないと思っていました。
そんな私に転機が訪れたのは、1995年の政治解決(※4)のときです。それまで認定されていない多くの人たちが救済を求め、申請をしました。叔母から「(水俣病で父親を亡くしている)あなたたちが申請しないと、私たちは申請しにくい」と言われたのです。この言葉にはっとさせられました。自分の沈黙が、周りの人たちの救済を妨げているのかもしれない。そして何より、父の生き方を知るにつれ、「隠していること」を父に叱られているような気がしました。
父は生前、チッソで労働組合活動を熱心に行い、ストライキをするなど、正義感の強い人でした。父は自分の病気が、会社の排水が原因だとは知らずに亡くなりました。もし父が生きていたら、チッソに責任を取らせたかっただろうなと思ったのです。そして、海は汚され、埋め立てられました。「魚がおいしかったから食べただけなのに、なぜ自分たちのことを隠さないといかんのか」「あなたが黙ってるあいだに、どれだけ大切なものがなくなった? あなたが一番水俣病を差別してるんじゃないか」と父に言われた気がしたのです。
事実そうだったんです。隣に住む従妹は2歳の頃に水俣病を発症しました。彼女とは小さなころから遊んでいました。でも、おとなになって、銀行で彼女とばったり会ったとき、水俣病のことがずっと嫌だと思っていた私は、声をかけられなかったんです。彼女は話し方にも、歩き方にも症状がみてとれました。声をかければ、周りにいる人に、私が水俣病の人と親戚だって知られてしまう。それを恐れて、声をかけずに帰ってきてしまったのです。
よく考えれば、私も父たちと同じ魚を食べているんです。私はたまたまこの程度の症状で済んだだけ。お母さんのおなかのなかで病気になって胎児性水俣病として生まれていたかもしれないし、子どものときに発病してもおかしくなかったとやっと気づきました。話したいと思うようになったのは、小さな声でも出さないと大切なものがどんどんなくなってしまうと思ったからでした。
あるとき講演した後で、昔からの知り合いが「自分の母も水俣病で寝たきりだった」と話してくれました。家族のことを話せない苦しさを抱えて暮らしてきたのは、私だけではないと知りました。
水俣の人たちはいろいろな思いを抱えています。私は母たちからチッソの悪口を聞いたことはないんです。母にとっては、チッソに勤めていた夫が水俣病で亡くなってもチッソは誇りであったし、恨めなかったんですよね。だからこそ、チッソが早く排水を止めてくれていればと思うのです。そして、チッソにはこれからは水俣病を伝えていく役目を果たしてほしいと思っているんです。
チッソを創業した野口さん(※5)はとても優秀な方だったと思います。ただ、私の祖父たちが見ていた海や山が、野口さんには「資源」にしか見えていなかったのかもしれません。私は、季節になると不知火海を臨む明神の岬で椿の実を拾い、鹿児島の業者さんに依頼し、椿油にしてもらっています。蟻(あり)やミミズが土を育て、植物が育ち実をつける。そうやって「自然は循環して自分たちに戻ってくる」。その視点があれば水俣病は起きなかったのではないでしょうか。
チッソはいろいろな所に工場を作っていますから、水俣病はどこで起きてもおかしくなかったのです。野口さんが化学繊維を大量に作ろうとしたのが、すべての始まりです。その先にプラスチックなどが生み出され、私たちの暮らしは「豊か」になり「便利」になりました。そして、今、私たちが使っているパソコンやスマートフォンの根底にも、水俣病を起こしたのと同じ『豊かさや便利さを追い求める考え方』があります。そこをどう変えていくか、それを一緒に考えてほしいのです。そして、水俣病を「終わった出来事」と捉えるのではなく、今の自分の暮らしと地続きの問題として捉えてほしいと思います。

椿の実。かつては水俣にも 自宅にあるアコウの木の前で。石段を下りると、今は水俣湾埋め立て地
搾油工場があったという。 「エコパーク水俣」が広がっている。
インタビュー 林 勝一(東京都人権啓発センター 専門員)
編集 那須 桂
撮影(表紙・2〜6ページ) 森田 具海
※1 1908年、日本窒素肥料株式会社が設立され水俣工場の操業を開始。水俣市はチッソの企業城下町として発展。戦後、新日本窒素肥料株式会社として再スタートし、1965年チッソ株式会社に社名変更。現在はJNC株式会社。
※2 1965年に新潟県の阿賀野川(あがのがわ)流域で公式確認された、昭和電工(現・レゾナック)の鹿瀬(かのせ)工場から排出されたメチル水銀による公害病。熊本に続き発生したことから「第二水俣病」とも呼ばれる。
※3 患者とその家族は水俣病患者家庭互助会を結成。補償を要求したがチッソは応じなかった。1959年12月30日、互助会は低額な見舞金と引き換えに「将来原因が工場排水と判明しても追加補償しない」という項目を含む「見舞金契約」をチッソと結ばざるをえず、以後、沈黙を余儀なくされた。後の裁判でこの契約は公序良俗に反するとして無効とされた。
※4 1995年、政府は裁判や認定申請の取り下げを条件とする「最終解決策」を提示。患者団体は「苦渋の決断」の末に受諾。約1万人あまりの未認定患者が申請。ただし、2004年の水俣病関西訴訟最高裁判決により国と熊本県の責任が認められたことで、新たに名乗り出る患者が急増。国は新たな解決策を示したが、被害の全貌は未だ明らかではない。
※5 チッソの創業者、野口(のぐち)遵(したがう)は、1908年に水俣に工場を建設し石灰窒素、硫安の製造を開始。戦前、朝鮮半島に当時世界最大規模の化学コンビナートを建設。宮崎県延岡に後の旭化成(あさひかせい)を創設するなど日本の化学工業界の先駆者とも評される。
参考:水俣フォーラム編『水俣から』岩波書店、栗原彬編『証言 水俣病』岩波新書
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