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TOKYO人権 第107号(2025年8月31日発行)
インタビュー
伊藤 光子(いとう・みつこ)さん
1975年中国に生まれる。10歳のとき、旧満州(現在の中国東北部)生まれの母の強い思いで父、兄2人とともに日本に帰国。2017年から厚生労働省の「語り部育成事業」に参加し、2021年から「中国残留邦人等の体験と労苦を伝える戦後世代の語り部」として、母と家族の経験を伝えている。東京都葛飾区在住。

伊藤 琴江(いとう・ことえ)さん
伊藤光子の母。推定年齢1歳で中国人夫婦に引き取られ、17歳の時に日本人(残留孤児)であることを知らされる。1983年、中国残留孤児の訪日調査により38歳で初来日。1986年に永住帰国し、日本国籍の取得を東京家裁に申し立てた結果、「証拠が不十分」として却下されるが、翌年の1987年に東京高裁で許可され、日本人としての戸籍を取得。
1932(昭和7)年から1945年まで存在した旧満州(現在の中国東北3省)には、国策「満蒙開拓団」として多くの日本人が暮らしていました。第2次世界大戦(1939─1945)の末期、旧ソ連軍が旧満州に侵攻し、その混乱の中で現地に置き去りとなり、中国人に保護された日本人の子どもを「中国残留孤児」と呼んでいます。置き去りになった経緯は人それぞれです。親が子どもの命を守るために故意に置いていったケース、逃げ惑う中で親と離れ離れになったケース、親は命を落とし子どもだけが助かったケースもあると思います。
戦後、日本と中国は断交状態でしたから、離れ離れになった日本人家族らは、互いに会いたくても会うことができませんでした。終戦から27年もの月日が流れた1972年になってようやく日中の国交が正常化され、中国残留孤児が日本に来て「肉親捜し」ができるようになったのです。
中国残留孤児である私の母・琴江は、1983年に厚生労働省の事業の一環で初めて来日し、肉親捜しをしましたが、身元の判明には至らず帰国はかないませんでした。その後まもなくして、身元引受人制度が設けられたことで、私たち家族(両親と2人の兄と私)は1986年に帰国することができたのです。母は41歳、私は10歳での帰国でした。
1945年8月、母は日本風の服を着て、路上に置き去りにされていたそうです。1歳ぐらいだったこと以外は、本来の名前も、正しい生年月日も、いまだにわかっていません。中国には、一家の中に病人がいる際に、元気な赤ん坊を迎え入れると病人が回復するというジンクスのようなものがあります。母の養母にあたる女性は、結婚してまもなく病に伏していたことから、私の母を引き取ったようです。そういう事情なので、実質的に母を育てたのは、同居していた養父の母(祖母)でした。赤ん坊だった母を迎え入れると、養母は本当に健康を取り戻し、その後7人もの子どもを出産。母いわく、養母とは距離があったとのことですが、それは、養母が実子と母を差別していたからではなく、養母が回復した頃には、母はおばあちゃん子になっていたからだそうです。母は自分を保護してくれた中国人一家に対し「貧しかったのに学校に通わせてくれて心から感謝している」と話しています。
母が、自分は日本人だと知ったのは17歳の時。育ててくれた祖母が息を引き取る間際に「あなたは日本人よ」と話してくれたそうです。ショックや悲しみよりも「どうして私は置いて行かれたの?」「自分はどこの誰?」といった疑問のほうが大きかったといいます。その後、母は小学校時代の同級生(私の父)と18歳で結婚し、父とその両親と一緒に暮らし始めました。翌年には長男が生まれ、その4年後に次男、その8年後に私が生まれています。
父は母の出自など全く気にしたことはなく、真の愛妻家でした。ただ、父の助言に従い、父の両親には日本人であることを伏せていたそうです。それでも母に対する姑のあたりは強く、ある時、私は母に尋ねました。「おばあちゃん(姑)は、お母さんに意地悪ばかりするのに、お母さんはどうしておばあちゃんにやさしくできるの?」と。母の答えは「お父さんがちゃんと私を愛してくれて、しっかり家族を守ってくれるからよ」というものでした。母の心はいつも父の愛で満たされていたので、姑につらくあたられても怒りや憎しみの感情が湧かなかったのだと思います。
母が帰国を望むと、父は慣れ親しんだ中国での仕事を辞め、自身の親兄弟を中国に残し、日本語が分からないにもかかわらず、母と一緒に来日することを決断しました。父はそれだけ母を大事にしていたということです。また、1980年代の中国は文化大革命の後で、教育事情が悪かったこともあり、両親としては「子どもたちには日本で教育を受けさせたい」との思いもあったようです。父と母がどれだけ子どものことを思い、大きな覚悟をもって来日したのかは明らかです。昨年、その父が他界しました。母の喪失感は、私や兄のそれよりも、圧倒的に大きいことは言うまでもありません。
私は10歳だったため、詳しいことは知らされていませんでしたが、8歳上と12歳上の2人の兄は母の出自や帰国することを知らされていたようで、帰国する1年前から日本語を習っていました。それを知った私の同級生が私たち家族のことを「日本人、日本人」とからかうようになり、私はそれがとても悲しく不快でした。なぜなら私は「日本人は悪い人たちだ」と学校で聞いていたからです。それである日、私は兄に「お母さんは日本人で悪い人なの?」と尋ねました。すると兄は私の頭をコツンとして「お母さんが悪い人だと思うのか? お母さんのことが嫌いか?」と逆に質問してきたのです。私がすかさず「悪い人じゃない。お母さんのことは大好き」と答えると「じゃあ、お母さんがどの国の人だって別にいいじゃないか」と兄に言われました。私は幼かったので、その時は「お兄ちゃんの言うとおりだ!」と納得するのですが、しばらくすると、また困惑したり不安になったりしたものです。
帰国後すぐの4ヶ月間は埼玉県所沢市の「中国帰国孤児定着促進センター(※1)」に家族全員で滞在し、そこで日本語や日本の生活習慣について学びました。私や兄たちは徐々に順応していきましたが、生まれた時から40年余り中国語を話し、中国の習慣で育ってきた両親にはかなり厳しかったようです。その後、私たち家族は団地で暮らすようになりましたが、両親は日常的に中国語を話し、通院など日本語が必要な時は私や兄が同行して通訳をしていました。外国籍の人が珍しくない今と違い、私たち家族が日本で生活を始めた1980年代後半は、外国人は「よそ者」の扱い。母が日本人であっても、日本語が話せない私たち一家は孤立気味で、よその誰かがルールを守らずに出したゴミがうちのせいにされたこともありますし、母もパート先では幾度となく嫌な思いをしたと聞いています。中国では「日本人」であることを隠さなくてはならず、日本では日本人なのに「外国人」と言われて疎外されてしまう苦悩は、私の母のみならず、中国残留孤児の誰もが経験していると思います。
1983年の肉親探しで訪日した際の母。東京・代々木の国立オリンピック記念青少年総合センターで
1986年6月に家族5人で日本に帰国し、これからの生活を見据えて弁護士の先生と一緒に日本の名前を決め、住む家も決まった同年10月のことです。家庭裁判所から「日本人である証拠に乏しいため、日本国籍の取得は認めない」と言われる事態に直面しました。理由は、母よりも前に日本国籍を取得した中国残留孤児の女性は、日本の童謡を歌ったり五十音を言えたりしたのに、母はそういうことが一切できないからというものでした。比較対象になったその女性は、置き去りにされた当時4歳でしたが、母は当時1歳です。歌や言葉を覚えているわけがありません。母はその時の気持ちを「みんなから『要らない』と言われたように感じた」と話していました。
そんな状況の中、11月に1番上の兄が交通事故で他界。家族全員が悲しみのどん底に突き落とされ、私の目に映る父と母は抜け殻のようでした。特に母は「私が帰国することを選んだから」と自分を責め続けていたように思います。兄は家族全員にとって頼りになる存在であると同時に、母にとっては姑につらくあたられる日々の中で大きな癒しであり、精神的な支えだったのです。私は私で、暗い家の中を明るくしたい、両親を笑わせてあげたい、だから泣いてはいけないと幼いながらに思っていたことを覚えています。
私たち家族は、国籍が取得できず落ち込み、兄を失ったことでさらに落ち込んでいましたが、翌年の6月、ようやく国籍取得が認められました。区役所へ行き、戸籍謄本を手にした母が、じっと戸籍謄本を握りしめる姿が印象に残っています。色々な感情をかみ締めているように私には映りました。兄を失った悲しみが癒えることはありませんでしたが、国籍取得が、家族全員でもう一度前を向くきっかけになったことは確かです。

1986年に家族5人で帰国した際の記念写真。東京・新宿NSビル前で

父が亡くなる1ヶ月前に撮影した家族写真
中国残留邦人の高齢化が進む中、その背景にある戦争のこと、日本へ帰国するまでの経緯、帰国後の苦労を知る人は減る一方です。戦争による苦しみや悲しみは、戦争が終わって80年が経った今もなお続いています。例えば、私の母は日本につながりがあるから帰国したにも関わらず、自分の肉親に出会えていません。労苦の中で生き抜いてきた人たちの存在を次世代に向けて語り、継承するため、厚生労働省が「中国残留邦人等の体験と労苦を伝える戦後世代の語り部育成事業」を行なっています。
私は3年かけて研修を修了し、2021年から語り部として活動しています。今は、何でもインターネットで調べられる時代なので、私としては、まず「中国残留邦人」という言葉を知ってもらい、こういう日本人がいる(いた)という事実を知ってもらいたいです。その上で「戦争は悪い」「どこそこの国が悪い」と結論づけて終わるのではなく、戦争について考えるきっかけを作りたいです。それが語り部の役目だと思っています。
母は戦争によって多くの「当たり前」を失いましたが、どんな状況下にあっても、小さな幸せを一つひとつ丁寧に拾い続けて、今があります。中国に置いていかれたことに対しても「そのおかげで私は生きているのだから幸せ」と話し、子どもである私たちや孫や曾孫に、惜しみない愛情を注いでくれています。それでも、「もし」というのが母の頭をよぎるのです。もし、戦争がなければ、私の母は親が名付けた名前を当たり前に名乗り、自分の孫と当たり前に日本語で話しをすることができたはずです。
厚生労働省によると2025年6月末の時点で、私の母のように永住帰国をした中国残留邦人は6,731人、その家族を含めると20,918人になるそうです。読者の皆さんの身近なところにも、私の母のような中国語しか話せない日本人がいるかもしれません。もし、そんな人に出会ったら「こんにちは」と笑顔で声をかけてみてください。とても喜ぶはずです。もし困っている様子なら「お手伝いしましょうか?」と声をかけてみてください。とても心強く思ってくれるはずです。こうしたことが、相手の国籍や話す言語に関係なく、ごく普通にできる社会であってほしいと心から思います。

語り部として活動する際に使用するノートと身につけている名札
インタビュー 吉田 加奈子(東京都人権啓発センター 専門員)
編集 那須 桂
撮影(表紙・2〜6ページ) 細谷 聡
※1 1986年当時の名称。1994年に「中国帰国者定着促進センター」に改称され、2016年に閉所。
※2 第2次世界大戦後、日本へ帰る機会を失い、中国で暮らしてきた日本人の方々。このうち、混乱状態の中で肉親と生別・死別し、中国人養父母に育てられた幼い子どもを「中国残留孤児」、やむなく現地の人と結婚した女性たち、および何らかの理由により残留せざるを得なかった男性(約1割)を「中国残留婦人等」と呼ぶ。
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