東京都人権啓発センター

TOKYO人権 第87号(令和2年9月10日発行)

特集

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ハンセン病隔離政策による“家族の被害”とは
~社会はなぜ患者と家族を差別したのか~

 日本はおよそ90年にわたりハンセン病患者・回復者を強制隔離してきました。この国の隔離政策によって、患者だけではなく、その家族もまた社会から厳しい差別や偏見を受けてきたことはあまり知られていません。本特集では、東北学院大学准教授で『ハンセン病家族たちの物語』の著者でもある黒坂愛衣くろさかあいさんに、ハンセン病患者の家族がどのような差別の被害に今でも苦しんでいるのかについてお聞きしました。

クイズ

日本で初めて「ハンセン病」の記述が登場した書物は?
(1)日本書紀(奈良時代)
(2)源氏物語(平安時代)
(3)徒然草(鎌倉時代)

答えはページ下にあります。

ハンセン病とはどのような病気か

 ハンセン病は「らい菌」により末梢神経や皮膚が侵される感染症です。感染力は弱く、現在の日本のように衛生状態や生活環境が向上した社会では発病することはほとんどありません。

 ハンセン病は、かつては「らい病」と呼ばれました。重い後遺症として顔や手足に変形が残ることなどから、前世の悪行の報いであるとか、遺伝する不治の病などとされ、いわれのない差別にさらされました。病原菌が発見され、感染症であることが確認されても、こうした偏見がなくなることはなく、むしろ恐ろしい伝染病であるという“感染の恐怖”が加わりました。

 1940年代には治療薬が開発され、早期に発見し適切な治療を受けさえすれば「治る病気」となりましたが、患者や家族は想像を絶する差別を受け続けてきました。その理由の一つが、国が行った患者の強制隔離政策にあります。

強制隔離政策が引き起こした患者と家族に対する人権侵害とは

黒坂愛衣さん顔写真

黒坂愛衣さん

 日本は1907年、地域社会を追われ放浪する患者を療養所に収容する法律「癩予防ニ関スル件」を制定しました。さらに1931年には、放浪者か否かを問わず全ての患者を強制的に隔離可能とする「癩予防法」へと法律を改正しました。全国に開設された療養所は、治療よりも隔離を主目的としていたことから、多くは交通の不便な場所が選ばれ、退所規定もありませんでした。収容された患者は治癒しても療養所で一生を送ることを余儀なくされるだけではなく、重労働を課され、強制的な断種や堕胎が行われたほか、待遇改善を求めると監禁されるなど、深刻な人権侵害を受けてきました。

 昭和初期から第二次世界大戦後にかけて、官民一体となって患者を探し出し、療養所に送り込む「無らい県運動」が全国で推進されました。住民同士の密告さえ奨励され、各県が収容者数を競うこの政策は、人々の病気への恐怖心をさらにかきたて、恐ろしい病気という誤った考えを人々に植え付けました。

 患者だけではなく家族も嫌悪し、差別の対象とする社会構造がこうして地域に根付いていったのです。家族は差別から身を守るため、患者と縁を切ったり、患者が死亡したと周囲に偽ったりするケースも少なくありませんでした。これについて、黒坂愛衣さんは次のように語ります。「隔離政策は患者とその家族の関係を大きく傷つけました。ハンセン病の回復者の中には『療養所で激しい人権侵害を受けた上、家族にも見捨てられた』と話す人がいる一方、家族の側にもそうせざるを得ないほど、社会から厳しい差別を受けている現実がありました。これこそが、ハンセン病問題の深刻さを物語っています」。

ハンセン病の歴史の年表

ハンセン病の歴史

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家族の被害救済と権利回復を求めて

 ハンセン病は発病力も弱く、治療薬の登場で「治る病気」となって以降、国際的には強制隔離制度の廃止が繰り返し提唱されていました。しかし、日本は1996年に「らい予防法」を廃止するまで、誤りを改めることなく隔離政策を続けたことで、ハンセン病に対する偏見・差別を助長してきたといえます。国は「らい予防法」の廃止にあたり、隔離政策が引き起こした人権侵害の責任と被害の補償についての認識を示しませんでした。そこで1998年、回復者らは隔離政策が憲法違反であることと、国による損害賠償を求める訴訟を熊本地方裁判所に提訴しました。2001年、熊本地裁で原告が勝訴すると、国は、誤った隔離政策を継続した責任を認め、補償金の支払いと回復者の名誉回復、福祉増進を図るハンセン病補償法(注1)を制定したのです。

 この訴訟をきっかけにしてハンセン病患者の家族の方々が集う「れんげ草の会」が発足しました。ここで初めて、家族らは互いの経験を語り合う場を得たのです。黒坂さんは2004年から家族への聞き取りを始め、家族らが受けてきた被害の大きさに驚いたと振り返ります。「家族はハンセン病問題の『関係者』ではなく『当事者』だと痛感しました」(黒坂さん)。

 やがて家族らから、2001年の判決時には国が認めなかった、隔離政策による“家族の被害”を社会に知ってほしいとの声が上がるようになりました。そして2016年、国に謝罪と賠償を求めて「ハンセン病家族国家賠償請求訴訟」が熊本地裁に提訴されたのです。

今なお続く差別を解消するには

ハンセン病療養所の地図

ハンセン病療養所画像クリックで拡大表示

 2019年6月、熊本地裁は原告勝訴の判決を下しました。国は隔離政策が家族にも被害を与えたことが違法であったことを認め、補償金の支払いや偏見・差別をなくすための人権啓発活動の強化を表明しました。

 しかし、「家族らの多くは勝訴を喜びながらも、身内が回復者であることを言えない状況は続いていると口をそろえたのです」(黒坂さん)。実は、原告となった561名の家族のほとんどが、裁判には匿名で参加していました。これは、差別が今日に至るまでいかに根強く残っているかを表していると言えるでしょう。例えば、2016年の提訴時に30代前半だったある女性は、父親が回復者であることを理由に離婚され、「また同じことが起きるかもしれない。新しい恋愛が怖い」と話しています。黒坂さんは「勝訴したことで問題が解決したわけではなく、これが差別解消へのスタート地点。原告団長の林力はやしちからさんが訴えているように“ハンセン病を隠さなくてもよい社会を作ること”が私たち一人ひとりに課せられている」と語ります。

 偏見・差別をなくしていくためのヒントとして、黒坂さんはれんげ草の会の一人、Kさんの体験を挙げます。Kさんは、結婚・出産を経た20代前半に、亡くなったと聞かされていた父親と療養所で会いました。重い後遺症が残る父の姿を見て、複雑な感情から戸惑いを覚えたKさんに対し、Kさんの子供は「これが自分のおじいちゃんだ」と抵抗なく受け入れたのです。Kさんは「私も子供のときに父親と会えていたらどうだっただろう」と思ったそうです。黒坂さんは「差別や偏見をなくすには、当事者から話を聞くことが一番です。特に若いうちから機会を持つことは、学びの効果を高めると思います」と語ります。

 回復者や家族が偏見や差別を恐れず安心して暮らせるためには、ハンセン病をめぐる国の過ちの歴史を正しく知ることはもとより、私たち一人ひとりにも責任があることに向き合うことが求められています。

(注1)ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律

(注2)年表内「ハンセン病問題基本法」
ハンセン病問題の解決の促進に関する法律

(注3)年表内「ハンセン病家族国家賠償請求訴訟判決」
判決を受けて、国は同年11月に「ハンセン病元患者家族に対する補償金の支給等に関する法律」を制定。同時にハンセン病問題基本法を改正。

インタビュー/林 勝一(東京都人権啓発センター 専門員)
編集/小松 亜子

クイズの答え

(1)日本書紀
1300年前に作られた『日本書紀』にはすでに「らい」の記述があります。また、世界では紀元前2000年頃のエジプトや中国などの文書に記載があります。

pick up!黒坂愛衣
『ハンセン病家族たちの物語』

冊子表紙

世織書房、2015年

国立ハンセン病資料館
東京都東村山市青葉町4-1-13
外部サイトへ移動しますhttp://www.hansen-dis.jp/
*開館日等詳細はホームページでご確認ください。

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