東京都人権啓発センター

TOKYO人権 第86号(令和2年7月31日発行)

インタビュー

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思いは「一人の人のため」
─ルワンダで 義肢装具ぎしそうぐ (注1)を作り続ける原動力

 東京都からルワンダ共和国の首都キガリまでは、直線距離で約11,900km。日本からの直行便は無く、乗り継ぎ時間も合わせると、移動には24時間以上かかります。そんな遠い異国の地で、24年にわたり 義肢装具士ぎしそうぐし として歩んできたのがルダシングワ真美さんです。
真美さんがなぜルワンダで義肢装具士の道を歩むことになったのか、真美さんが長きにわたり見つめてきたルワンダとはどのような国なのか、トークイベントのため帰国したタイミングに合わせてインタビューしました。

PROFILE

ルダシングワ真美さん顔写真

ルダシングワ 真美まみ
義肢装具士

1963年、神奈川県生まれ。専門学校を卒業後、法律事務所へ就職。1989年、ケニアへ留学。91年から平井義肢製作所で修業し、97年に義肢装具士としてルワンダへ。96年、NGO『ムリンディ/ジャパン・ワンラブ・プロジェクト』を設立。2000年のシドニー・パラリンピックにルワンダ選手のサポートとして参加。07年、隣国のブルンジ共和国でも義肢製作を開始。13年、シチズン・オブ・ザ・イヤー賞、17年、外務大臣表彰、18年、読売国際協力賞を受賞。

真美さんの関心がアフリカに向いたきっかけについてお聞かせください。

写真:ルダシングワ真美さん

 私は日本で専門学校を卒業後、法律事務所で事務仕事をしていたのですが、自分の考えを反映できる仕事ではないことや、限られた人との出会いしかない環境に悶々もんもんとしていました。そんな時に、書店で手にした旅行のガイドブックに「ケニアでスワヒリ語を学びませんか?」という一文があり、それを機に会社を辞め、長年お付き合いしていた男性を日本に残し、ケニアに行くことにしたんです。

 ケニアでは、目に映るもの、出会う人々、初めて知る文化など、何もかもが新鮮で、充実した毎日でした。そんな中、友人が住むアパートメントに遊びに行ったところ、その一角に、足が不自由なドレッドヘアの男性が暮らしていたんです。その彼が、後に私の夫になるガテラ(注2)なのですが、当時、彼の母国であるルワンダは、紛争で治安が安定していませんでした。危険を感じた彼は母国を離れ、ケニアでアフリカの民芸品を仕入れる仕事をしていたんですね。あるとき、その商品の中に素敵な彫刻を見つけた私は、それを値切って買おうとしました。でも彼はまったく応じてくれなくて(笑)。そんな誰にもびない感じが印象的ではありましたが、私のケニア滞在中、彼と言葉を交わしたのは数えるほど。その後、私は1年の滞在を終え、日本に戻りました。

 そしてクリスマスの日に、7年お付き合いをしていた人にふられてしまったんです。さすがに落ち込みました。そんな時、ガテラのことをふと思い出したんですね。同時に、猛烈にアフリカを恋しく感じる気持ちが湧きあがって来ました。私は自分が失恋して、どれだけつらいかを手紙につづり、ガテラに送りました。数か月後、やっと来た返事には、写真が1枚同封されていて、そこにはドレッドヘアを失った彼の姿が写っていました。手紙には、ルワンダの空港に降り立った際に拘束され、暴行を受け、髪の毛はむしり取られたと書いてありました。私の失恋よりも、彼のほうがずっとずっと深刻な状況に直面していたわけです。その時に、私は初めてアフリカの闇の部分を見せつけられたように感じました。

どのような経緯で義肢装具士になろうと決心されたのですか?

写真:イベントでのインタビュー風景

 ガテラと文通を重ねているうちに、彼にかれている自分に気付きました。一方で、遠く離れた場所、異なる文化、ましてやルワンダという貧しく紛争のある国を母国に持つ彼と本当にうまくやっていけるのか、足に障害のある彼と共に築ける未来があるのかなど、不安に思う自分もいました。それで、自分の気持ちを確かめようと思い、私はガテラに会いに再度ケニアに向かったんです。1年ぶりの再会を果たし、彼も私も同じ気持ちであることはわかったものの、私がケニアで仕事を見つけることは難しく、ガテラも母国に帰ることができない難民状態。それならしばらく息抜きを兼ねて滞在してもらおうと、彼に日本に来てもらうことにしました。

 ガテラは子供のころにマラリアを患い、その時の医療ミスが原因で足に障害があります。以来、装具を付けているのですが、日本滞在中に壊れてしまったんです。修理をしてくれるところを探す中でたどり着いたのが、神奈川県にある平井義肢製作所でした。そこで義足を作っている様子を見て、私は「この技術を習得すれば、私がガテラの足をつくることができる!」と思ったんです。私は単純に自分が大切に思う一人の人の役に立ちたいと思ったにすぎませんが、ガテラは「この技術をルワンダに持ち帰れば多くの人の役に立つ」と思ったそうです。この時の二人の思いが、私たちが共に生きる上での大切な原点になったと言えます。

ルワンダでの活動についてお聞かせください。

写真:真美さんと笑顔の患者さん

はじめて義足を製作した患者さんと

 大虐殺(注3)が起きた1994年当時、私は義肢装具士になるため、平井義肢製作所で修業中でした。ガテラはケニアに住みながら、時々ルワンダに戻る生活をしていたんです。連絡がつかない期間は3か月にもなり、私も生きた心地がしませんでしたが、彼は無事でいてくれました。そして1995年、修業中の身ではありましたが、休暇を取ってルワンダ入りしたのです。その後いったん日本に戻り、立ち上げのための準備(資金や中古の義足を集めていました)を終え、義肢装具士として現地へ向かったのは、1997年のことでした。

 場所はルワンダ政府が原野のような広い土地を提供してくれました。でも、建物を建てる資金はなく、手造りでレンガを作ることから始めたんです。私とガテラ、そしてたくさんの人たちの力を借りながら地道に作業を進め、それこそ10年がかりでいろいろな機能を整備し、活動を本格化させました。一方で、運営する主体としてNGO『ムリンディ/ジャパン・ワンラブ・プロジェクト』を設立(1996年)。「ムリンディ」はルワンダ北部にある場所で、復興のシンボルとなった土地の名前。「ワンラブ」は私たち夫婦がそろって大好きなボブ・マーリーの曲にちなんだものです。

 義肢装具の製作にかかる費用は、寄付金や支援金を充当していて、当事者に直接、無償で配布しています。活動を継続させるためには、自分たちで資金を生み出す仕組みも必要だと考え、敷地内に、宿泊が可能なゲストハウスとレストランも建てました。私たちは敷地全体を「ワンラブ・ランド」と呼んでいます。

 「ワンラブ・ランド」には、子供から大人まで、様々な人がやってきます。義肢装具を必要としている人は、大虐殺時に手や足を失った人もいれば、交通事故が原因の人もいるし、近年では糖尿病が原因の人も増えています。義肢製作所ができた当初は、私も製作の最前線にいましたが、24年が過ぎた今では、ルワンダ人の義肢装具士らが中心メンバーとなり、年間で50~70本の義肢装具と400本のつえの製作、壊れた義肢装具の修理などを行っています。中には独立して自分の義肢製作所を切り盛りしているルワンダ人義肢装具士もいます。

活動を通して、印象に残っている出来事には、どのようなことがありますか?

写真:装着した義足を見つめる少年と製作所の様子

 印象に残っている患者さんは数えきれないほどいますが、20代の女性に義手を作った時のことはよく覚えています。彼女は大虐殺が起きた時に12歳だったそうです。両親を殺され、幼い弟を背負って走って逃げる最中に切りつけられたらしく、顔には大きな傷があり、耳も半分しかなく、左手は親指しかありませんでした。最初に会った時はずっと下を向いたままだったのですが、完成した義手を渡したとき、彼女はとてもうれしそうな笑顔で「この爪にマニキュアを塗ってもいいの?」と言ったんです。年頃の女性ですから、マニキュアを塗って、おしゃれを楽しみたかったのだと思います。

 義足を作りにきた中学生の男の子もまた、初めて製作所に来たときはニコリともしてくれませんでした。私やスタッフがどんなに話しかけても、暗い表情のまま。でも、義足をいて歩けることがわかった瞬間、満面の笑みを見せ「将来はサッカー選手になりたい」と話してくれました。この少年のことも、とても印象に残っていますね。

 実は、子供に義肢装具を提供することに積極的でない時期もあったんです。一度型取りをして製作しても、翌年にはサイズが合わなくなってしまう。寄付や支援金には上限がありますから、対象から子供を除外した方がより効率的に回すことができるわけです。しかし、彼らの未来こそがルワンダの未来なんだと指摘されて、初めて気が付きました。義肢装具には機能的なこと以上の意味もあるのだと。

様々な逆境を乗り越えてきた真美さんが、いま直面している問題は何ですか?

写真:隣り合って笑うガテラさんと真美さん

 昨年のクリスマスの晩のことでした。大雨が降り、ワンラブ・ランドの敷地内を流れる川が氾濫してしまったんです。洪水の被害に遭うのは、これで5度目なのですが、今回の被害はこれまでで最も大きく、義肢製作所はもちろん、レストランもゲストハウスも泥水まみれになってしまいました。それでも活動は続けようと掃除や修理をしていたのですが、今度は政府から立ち退きを命じられてしまって。「大雨が降ると危険な場所だから」というのが理由なのですが、何の補償もないため動けずにいたところ、今年の2月、政府はショベルカーを持ってきて建物を壊すという強硬手段に出たんです。20年以上にわたり活動をしてきた場所を目の前で壊され、悔しさで一杯になりました。

 いつもは年に1回、ガテラと2人で日本に来て、日本国内を講演して回って、支援や寄付を集めています。今回はワンラブ・ランド再建のためガテラは残り、私一人で日本に戻りました。しかし、予定されていたおよそ100件の講演やイベントは、新型コロナの影響で、ことごとく中止になりました。

 でもふと思い出すんです。洪水ですっかり流されてしまったワンラブ・ランドの建物の中から猫の鳴き声がしたことを。「こんな状況下でも生きようとする命があるんだ」と思い、勇気づけられました。また、重機で壊された建物の跡では、わずかなお金にしかならないような廃材を拾い集める現地の子供たちの、いい意味でのしたたかさにも励まされました。私も重機のような「大きな力」で生きようとするのではなく、猫や子供たちが持っているような「小さい力」で、したたかに生きていきたいと思います。こんな現状なのですが、幸いにも、ガテラが親族から譲り受けた土地があるので、今、そこに義肢製作所を建て始めています。資金がないため、20数年前と同様、手造りの再スタートです。いつ完成するのか想像もつきませんが、少しずつでも進めていけば、いつかは必ず完成すると信じて頑張っています。

 出会った皆さんから「すごいですね」と声をかけていただくこともあるのですが、私はガテラという一人のルワンダ人に出会い、その人を好きになり、自分が「こうしたいな」と思うことをやってきただけ。立派な志のもとで人道支援をしている感覚なんて皆無なんですよ(笑)。私たちの活動については公式サイトでも報告していますので、興味や関心のある方はぜひご覧ください!

(注)2020年5月30日に行われたトークライブ「希望の義足~ルワンダの復興とパラリンピックへの道~」(出演:ルダシングワ真美・岩堀滋・椎名誠/ YouTube 公益財団法人東京都人権啓発センター公式チャンネルで配信/本編再生2154回)およびその後に実施したインタビューから再構成しました。

(注1)義肢装具
義肢とは義手・義足の総称で、装具は関節や体幹部などに補助・固定・矯正等を目的に装着する器具を指します。

(注2)ガテラ
ガテラ・ルダシングワ・エマニュエルさん。1954年生まれ。

(注3)大虐殺
1994年にルワンダ共和国で起きた国内紛争とジェノサイド。第一次世界大戦以降のベルギーによるルワンダ国民の分断統治に端を発する。わずか3か月の間に100万人にのぼる人々が虐殺されたと言われる。(外務省ホームページ/国・地域「ルワンダ共和国」ほか参照)

インタビュー/坂井 新二(東京都人権啓発センター 専門員)
編集/那須 桂
撮影/細谷 聡

冊子表紙

WEBサイト:外部サイトへ移動しますhttp://www.onelove-project.info/

『義足と歩む ルワンダに生きる日本人義肢装具士』

著:松島恵利子
汐文社 2019年

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