TOKYO人権 第27号(平成17年9月1日発行)
特集
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今回のゲストは、国内最初の肢体不自由児療護施設「ねむの木学園」を設立し、現在も学園長を務める宮城まり子さんです。昨年の宮城さんの東京都名誉都民受章を記念し、この夏、ねむの木学園の子どもたちが描いた数々の絵を展示する「ねむの木のこどもたちとまり子展」が、江東区にある東京都現代美術館で開催されました。
そこで今回の特集1は、展覧会開催期間中の宮城さんをお訪ねして展覧会の反響をはじめ、ねむの木学園のこと、そして宮城さんの考える「福祉」や「自立」のことなどについてお話をうかがいました。
宮城まり子さん
1927年、東京生まれ。1955年「ガード下の靴みがき」で歌手デビュー。東宝劇場出演中スカウトされ、ミュージカル等の舞台に立つ。その後、女優業に進出し1958年に「12月のあいつ」で芸術祭賞、1959年「まり子自叙伝」でテアトロン賞を受賞。1968年に肢体不自由児の社会福祉施設「ねむの木学園」を静岡県浜岡町に発足。1974年には記録映画「ねむの木の詩」、1977年には同じく「ねむの木の詩がきこえる」を製作。1979年「ねむの木養護学校小学部・中学部」開校。1982年「ねむの木養護学校高等部」開校。1997年「ねむの木学園」を掛川市に移転。同年、身体障害者療護施設「ねむの木のどかな家」を設立。1999年、文化施設として「吉行淳之介文学館」「ねむの木こども美術館」を開館。2004年「東京都名誉都民」の顕彰を受ける。現在、ねむの木学園で理事長・園長・校長を務めながら教育の現場に立つとともに、静岡県掛川市に生涯学習をもとにした健康な人、ハンディを持った人、老人、若者がともに暮らせる「ねむの木村」を運営する。
来場者の皆さんから心温まる声をかけていただきました。
反響の大きさについては……望んでいました。たくさんの取材を受けましたね。わたしのありったけで、障害をもつ子の素晴らしい絵を見ていただきました。
「ねむの木のこどもたちとまり子展」ポスター
来場していただいた方からは、すべてといっていいほど、「これからもお元気で、どうぞ長くやってくださいね」とか「ありがとうございました」っていう声をかけていただくことが多かったです。東京都主催で入場料がタダだからかな(笑)。でも、そういう意味じゃなくて、本当に絵を見て「元気とか勇気とか、優しさや愛をいただきました」っておっしゃる方が多かったんです。
あとは、「じつはわたしの家族も障害を持っていまして……」といった身の上話をなさってくれた方もいらっしゃいます。ごく短い時間しかお話しできなかったんですけれども、その方々は展示されている絵を見てなにかを感じ取ってくれて、それでわたしにならそういう話をしてもいいと思ってくれたんでしょうかね。
今回の展覧会は、点数だけでいえば、たくさんとは言えません。これまで海外でやったときには、800点を展示したこともありましたから。ただ、この展示を、都立の美術館で開催できて、そしてこれだけのお客さんに来ていただいたことがうれしかった。会場では、わたしの心を存分にお届けさせていただきました。ねむの木の子たちの合唱をやると、たくさんの方たちが集まってくれて、それも、心が近くなりました。
「福祉」という言葉は「ぶんか」という振り仮名をあてて読むといいと思う。
掛川へ移転してから今年でもう8年になります。移転した先に「ねむの木こども美術館」や「吉行淳之介文学館」を建設した理由はいくつかありますが、そのひとつは施設に文化をプラスしたかったからです。
なんだか障害者の「施設」という言葉は、「頑張っている」という感じがしませんか?むしろそこに「文化」が匂ったら、もう少し福祉の地位が高くなるんじゃないかなと、わたしは思うんです。つまり、わたしの中では「福祉」という言葉の振り仮名なは「ぶんか」なんです。いわば吉行さんは、施設に文化をプラスするための犠牲(笑)。本当は2人で住んでいたところに作りたかったんですけどね。
海外の施設に目を向けると、そこには誇りがあるんですよ。日本の施設に比べるとずっとね。だからわたしは、そこで働く職員たちが、自分の親に誇れるような仕事場になっていたいと思うんです。
「ねむの木のこどもたちとまり子展」の会期中(7月23日〜8月14日)の延べ入場者数はおよそ3万5千人。宮城さんは初日から最終日まで連日会場に入り、会場で、ねむの木のみなさんの合唱を指揮したり、サイン会を催すなど、積極的に来場者との交流を行っていました。
この展示会は、10月18日〜30日まで、静岡県立美術館で巡回開催される予定です。詳しくは、ねむの木学園のホームページをご覧下さい。
(ねむの木学園のホームページ http://www.nemunoki.or.jp/)
健康な子も、障害を持つ子も、同じ教育を受ける権利があると思い込んでいた私には、やっぱり勉強が必要でしたから、しょっちゅう海外の施設へ行ってました。女優の仕事をやっていたので、日本の施設に行くのは嫌だったんです。それで当時は「アメリカでミュージカルを観て勉強してきます」って嘘ついて(笑)。そうやってオランダやドイツ、アメリカと、いろんな施設を回っていました。
たとえばニューヨークのあるリハビリテーションセンターは、入院費はものすごくお金がかかる代わりに1人に対してスタッフが17、18人つくなんていうところもありました。それだけあらゆる角度から治療や訓練を行うんですよね。それから、サンフランシスコに消防自動車を3台も持っているという施設もありましたね。自前でですよ(笑)。まあその時、アメリカらしくていいなと思ったんですが、同時にこれは、わたしのすることじゃないとも思いました。
結果的に、ねむの木学園は、アメリカよりもヨーロッパの施設に近いイメージで作ることになりました。ヨーロッパって、国境と国境が近いでしょ。お互いに危機感を感じて生きているからこそ、人に優しくなれるんじゃないかと、わたしは思うんです。
例えば、スウェーデンのような福祉社会は、冷戦下の緊張関係を前提にして、そこに住む「人間」をなによりも大切にすること…子どもも、病人も、女性もすべて…こそが、国として自立するために必要なことなのだと考えれば、理解しやすいのではないかと思うんですね。ほかにも、オランダで点字が刻まれたお札を初めて見たときの驚きとか、ドイツやイギリスで訪問したさまざまな施設とか…いまでもはっきりと思い出すことができますよ。
そういえば、スウェーデンで「ねむの木」の絵画展をやった時、お昼ごはんは現地のスタッフが手作りでごちそうしてくれました。乾燥したじゃがいもや鶏肉を使って。日本ではちょっと考えられないですけど、女性10人男性1人のスタッフと。そんなやさしいところで50日間展覧会をやったものですから、もうその「質素な豊かさ」が大好きになってしまいますよね(笑)。
学園の子どもたちには「愛されている」という安心感があると思います。
ねむの木の子どもたちと合唱
日本語の「自立」というのは、少し誤解があるように思います。たとえば家族や集団ではなく、どこか別の家に住んで自分の力で生きていく、というイメージ。でも、そうすると家族のいない子どもはどうでしょう? 結婚しない限り、大人になっても家族が増ふえるわけではありません。
学園は皆さんの税金によって支えられているわけですから、たとえばこういうこと(展覧会の開催)でお返ししていけばいいのでしょうが……あるいは集団で暮らして、そこからいろんなところへ働きに行けるようにはできないか……ただ、その能力と、なにより世の中の人が、もっとやさしくなきゃあね。
誤解をおそれずに言いますけど、わたし、ねむの木の子どもたちはきれいだと思うんです。生まれや環境はすごく哀しいのに、なんでこんなにきれいなんだろうなって。それはやっぱりいい環境と「愛されているんだ」っていう安心感なんだろうなって思うんです。
だから「施設」っていう言葉じゃなくて「大きいおうち」の中で、たとえば描いた絵が表紙になりましたとか、そういうことで収入を得られたり……それと、ねむの木村の中には小さいお店があるんですが、そこで店員としてじゃなく、オーナーとして働いたり……なんか、いいでしょ?
そうやって子どもたちのことを見て考えて、そして守ってあげられれば、それぞれの集団の中の「自立」につながっていくんじゃないかと思っています。
純粋に嬉しかったです。それは受章理由が「いいことをしたから」「偉いことをしたから」というだけなら恥ずかしかったと思いますけど、「東京都民に敬愛される対象として顕彰する」というところが好きだったんです。やっぱり愛されるということは幸せですものね。わたし、がんばっちゃうから、ほっとした時、「愛されてるんだ」って思うとうれしいの。
東京で生まれて仕事は日本中。この広い東京が私の故郷です。私の仕事は、世の中に対する感じ方と行動です。できれば、生きていたら98歳になる母と、ねむの木の子どもたちと一緒にいただきたかったわ。
女優が福祉をやるって、苦笑いをされていると感じて生きてきましたから。でも、わたしにはわたしのやり方しかありませんから。まあ、今になってみれば、もっと苦労しなくて済むやり方があったかもしれませんね(笑)。でも、そういう意味では、わたしは一途なんですよね。
東京都人権プラザ展示室では、平成17年12月から、宮城まり子さんのこれまでの活動をご紹介する展示を実施する予定です。詳しくは12月発行予定の本誌28号をご覧下さい。