東京都人権啓発センター

TOKYO人権 第76号(平成29年11月20日発行)

インタビュー

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療養所を出て、社会で力強く生きる

ハンセン病回復者として、差別や偏見に立ち向かう

 ハンセン病患者(注1)を療養所に隔離することを定めた「らい予防法」が廃止されて20年。特効薬により治る病気となってもなお、日本は隔離政策を続けたため、治癒後も多くが療養所で一生を送ることを余儀なくされています。そんななか、石山春平さんは結婚を機に療養所を退所し、社会復帰を選択。厳しい差別や偏見にさらされながらも必死で歩み続け、現在は各地で講演活動などに取り組む石山さんに、これまでの人生を語っていただきました。

PROFILE

石山春平さん顔写真

石山春平いしやまはるへい さん
ハンセン病回復者/全国退所者連絡会副会長

昭和11(1936)年、静岡県生まれ。昭和27(1952)年に私立療養所「神山復生病院」に入院。昭和43(1968)年、結婚を決意し社会復帰。現在、川崎市身体障害者協会のリーダー、全国退所者連絡会副会長、関東の療養所退所者の会「あおばの会」会長を務める。第21回神奈川県弁護士会人権賞。

ハンセン病が発症したころの、周囲の反応を教えてください。

写真:インタビューに応える石山さん

撮影/宇井 眞紀子

 左手の小指が曲がってきたのが、最初の兆候でした。昭和22年、11歳の時にハンセン病と診断されると、すぐに小学校を強制的に退学させられ、学校は私の机と椅子を焼却したそうです。私の机があった一角には床に新聞紙が貼られ、卒業まで立入禁止になっていたと、最近、同級生から聞きました。役場からは、病院に強制収容するとの通知が届きました。しかし、父親はハンセン病で亡くなった近所の娘さんが、墓に入れてもらえず、村はずれの空き地に葬られたのを知っているので、息子は自分が弔ってやりたいとの一心で、強制収容の免除をお願いしたのです。医者に15歳まで生きられないと言われていたこともあり、家の外に出ないという条件で、納屋で過ごす家庭内隔離生活が始まりました。

 最初の1年は、左手の症状以外は何ともなく、友達と山や川で遊んでいました。ところが13歳のころ、顔の半分近くが赤くはれてくると、親友から「お前と遊ぶと両親に叱られる。お前は一番の友達だけど、お別れにきた。いつまでも俺は友達だからな」と告げられ、それ以来、誰とも遊べなくなりました。

 当時、行政はハンセン病を恐ろしい伝染病であり、患者を強制隔離しなければならないと宣伝していました。ですから、ハンセン病は子どもにとっても、そばにいるだけで伝染する怖い病気だったのでしょう。

 それでも夜になると、こっそり映画を見に行きました。映画館は暗いので顔を見られる心配がないからです。帰り道、近所の女の人たちと一緒になると、彼女たちは私の病気を怖がって、悲鳴を上げて逃げて行きました。近所のおじさんが飛び出してきて、私だと分かると「お前は汚いから、道を歩くな!」と、野良犬を追い払うように石を投げつけてきました。私はずっと下を向いたまま帰りました。

 姉は、夫と姑に私の病気のことを黙っていましたが、あるとき離婚覚悟で私のことを話すと、同情してくれたそうです。姑さんは厳しい人で、姉はずいぶん苦労したようですが、姉は私に、そのときだけはうれしかったと話してくれました。70年ほど昔の話でも、肉親の話をすると涙声になってしまいます。ハンセン病の家族には、言葉にできない悲しみがあるのです。

神山復生病院こうやまふくせいびょういん(注2)に入院することにしたのはなぜでしょうか。

 入院を決心する前に、実は自殺を試みたことがありました。家にいても家族の迷惑になるだけだし、誰とも遊べなくて孤独でしたから。山奥で農薬を飲んで死のうと考えました。山に入り、「〇月〇日春平死す」とカタカナで遺書めいたものを近くの木に彫りました。あとは農薬を飲むだけです。ところが、死後の世界が怖くて飲めなかったのです。それで、「今日限りで、石山春平は死んだ」と考えることで、心に区切りをつけたのです。「自分は死んだ」と思えば、人から何を言われても平気ですから。それでも、村の人から罵倒されたままでは悔しいので、せめて長生きをして、見返してやろうと考えました。父親には、「同じ病気の仲間がいる病院に行きたい。死ぬ前に人と話がしたい」と訴えました。私は約3年間、家族以外の誰とも話すことができずにいたのです。

 その3日後、人気のない村外れに病院のトラックが迎えに来ました。すると、トラックから降りてきた女性が小走りで私のところに来て、抱きしめてくれたのです。「つらかっただろうね。よく我慢したね」って。私は3年間、他人から優しい言葉など一度もかけてもらったことがなかったので、せきを切ったようにわんわん泣いてしまいました。その女性は目立たないように白衣の上からコートを着ていましたが、彼女の体温が全身に伝わってきたのを今でも覚えています。父親は、病院に入ったら私が生きて帰ることはないと思っていたので「家も山も川も見納めだから、忘れんように見とけ」と言っていました。こうして、昭和27年、16歳で療養所に入りました。

病気から回復後、石山さんが退所を決めたのはなぜでしょうか。

 その頃はすでにプロミンという治療薬がありましたから、入院して3年後には病気は治りました。真っ先に思ったのは家に帰りたいということでした。すぐに父親に手紙を出しましたが、その手紙の返事には、「兄の結婚話が進んでいるので、今帰ってきてもお前の居場所はない。病院にいた方がお互いの幸せになると思う。悪く思わないでくれ」とありました。手紙を見せた同部屋のおじさんからも「お前が家に帰れば家族が苦労する。親が返事に困るような手紙を書くのは親不孝だ」と叱られ、家に帰ることは諦めたのです。

 入院して10年くらい経った頃、病院の職員の女性とお付き合いをしていました。病気が治ったのになぜ退所しないのかと聞く彼女に、私は社会に出ても生活していく自信がないからだと答えていました。すると「2人で頑張れば生きていける」と言うのです。「2人って、俺のこと?」と聞いたら、彼女がうなずきました。「私が看護師として働くから、2人で人間らしい生活をしよう」とプロポーズされたのです。こうして昭和43年に、私は退所して彼女と暮らす決心をしました。

 退所するにあたり、私が頼ったのは、社会復帰の際は力になると言ってくれた教会の知り合いです。私がいた療養院はカトリック系でしたので、教会の関係者が見学に来ることもあり、よく案内役を務めていた私は、名刺をいただいていたのです。その人に、「将来を誓った人と社会に出たい」と手紙を書くと、翌週には迎えに来てくれました。療養院の院長は驚いていましたが、力になってくれる人がいるのはチャンスだと、退所を勧めてくれました。その後、ラジオの組み立ての仕事に就くことができたのは、その人のおかげです。経営者は、私の病気を承知した上で採用してくれたのです。

社会復帰後、元ハンセン病患者であることを周囲に伝えることはできましたか。

 私の不自由な左手を見て、職場にいた松葉杖の女性は、障害者の仲間ができてうれしかったようで、私の病気について聞いてきました。しかし、私はハンセン病だとは言えず、小児マヒだと嘘をついてしまいました。社会復帰をしたハンセン病回復者は、差別や偏見を恐れてつい経歴を偽ってしまうものですが、私もそうだったのです。

 その後も、息子の小学生時代にはPTAの役員をしていましたが、病気のことは話していませんでした。ですが、私の顔や手が曲がっているのを、息子はクラスメイトにまねされたり、お父さんの病気は何だと追及されることもあったらしく、私が学校に行くことを嫌がっていました。私自身はひどいことを言われても我慢できますが、息子が私のことで苦しむのは耐えられません。そこで担任の先生に病気のことを話し、PTAを辞めさせてほしいとお願いしたのです。すると先生が「僕に任せてください」と言いました。そして2日後、返事を聞きに学校へ行くと、子どもたちが私の方に笑顔で駆け寄ってくるではありませんか。先生は、子どもたちにこんな話をしてくれたそうなんです。「石山君のお父さんは『障害者ですができることがあればやります』と、誰もやりたがらないPTAの役員を引き受けてくれた。その姿にお母さんたちが感動して、続々と役員が決まった。石山君のお父さんは、人のために尽くす姿勢にあふれている」と。先生は、私と子どもたちに真剣に向き合ってくれたのです。

啓発活動に取り組むきっかけとは?

 2001年の国家賠償請求訴訟で患者側が勝訴したことです。国のハンセン病患者に対する隔離政策は憲法違反だという判決が出て、政府が自らの責任を認めました。この判決がきっかけで、私はより積極的に元ハンセン病患者だと発言するようになったのです。こうした機会は、講演でなくても、意外と普段の生活のなかにあります。例えば子どもは正直ですから、私の手が不自由なことに気づくと「おじちゃんの手はどうしてそんななの?」と疑問をぶつけてきます。あるとき、その子どものお母さんが「そんなこと聞いちゃダメ」と叱ったので、こう話しました。「大人がちゃんと教えてあげればいいのです。質問を禁止すると、相手に対する理解が進まないから偏見の元になる。それはよくない」と。その子には「おじちゃんは10歳くらいから病気で左手がうまく使えないけど、ご飯茶わんはテーブルに置いて、フォークで食べているよ」と教えました。すると「かわいそうだね」と言葉をかけてくれました。

退所者の人たちに伝えたいことはありますか。

写真:インタビュー風景:石山さん

撮影/宇井 眞紀子

 関東地方に暮らす療養所退所者の会「あおばの会」のメンバーにも、障害のことを隠さず話すよう呼びかけていますが「石山さんは特別。同じことはできない」と言われ、歯がゆく思っています。また、「隠しておきたいことを聞かれるのは嫌だ」と話す人もいます。退所者は、周りにハンセン病のことを話せないばかりか、病歴がばれることを恐れて、近くの病院にも行けない人が数多くいます。これまで、いかにひどい差別を受けてきたかが伺い知れますよね。しかし、そこを越えないと誰からも理解してもらえません。風が吹いてきたときに、戸を閉めれば風は入ってこないけれど、こちらの思いも伝わらない。向こうの風を受けて、こちらも言葉を返すことで、初めて分かり合いへの一歩が踏み出せるのだと思います。

 自分の障害について話すのは勇気がいることだと思います。しかし、世間は冷たい人ばかりではないことも知ってほしいのです。子どものとき、ハンセン病の私とは遊べないと言って離れていった友人とは、今では一緒に旅行をする仲になりました。

読者へのメッセージをお願いします。

 ハンセン病の回復者に対する考え方は、人それぞれだということは十分承知しています。世代が違えば、受けた教育も生活環境も違うので、考え方も違って当然です。それでも、やっぱり私たちのことに関心を持ってもらえたらうれしいですね。

インタビュー/林 勝一(東京都人権啓発センター 専門員)
編集/奥田 みのり

(注1)

ハンセン病は「らい菌」により末梢神経や皮膚が侵される感染症。後遺症として顔や手足の変形をのこすことがある。本来、感染力は極めて弱いが、不治の病、恐ろしい伝染病とみなされ、厳しい差別の対象となった。かつては「らい病」と呼ばれたが、今日では「らい菌」を発見した医師の名前にちなんで「ハンセン病」と呼ばれる。法律により患者たちは強制的に全国の療養所に収容され、家族や友人、地域から分断された。

(注2)

静岡県御殿場にある私立療養所。現在、療養所は全国に国立13施設、民間1施設(神山復生病院)がある。

豊富な実物資料、映像などでハンセン病の歴史を学ぶことができます。

国立ハンセン病資料館(国立療養所多磨全生園隣)

東京都東村山市青葉町4-1-13
電話:042-396-2909

ホームページ:外部サイトへ移動しますhttp://www.hansen-dis.jp

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