東京都人権啓発センター

TOKYO人権 第67号(平成27年8月31日発行)

インタビュー

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人権を考える――それは想像力を働かせて自分とは異なる人の立場になってみること

日本国憲法の三大原理の一つ、基本的人権の尊重。権利保障の中核的条文といわれる第13条に「すべての国民は、個人として尊重される」とあるように、憲法は日本に暮らす私たちが個人として尊重され、一人ひとりの自由や平等を保障する重要な役割を担っています。

日本国憲法は世界的に見ても、高い水準で人権が保障されていると言われますが、憲法はなぜ人権を保障しているのでしょうか。憲法を通じて人権を考えるうえで大切な視点について、憲法学者である木村草太さんにお話を伺いました。

PROFILE

顔写真:木村草太さん

木村 きむら 草太 そうた さん

1980年、横浜市生まれ。東京大学法学部卒業、同助手を経て、現在、首都大学東京法学系准教授。専攻は憲法学。法科大学院での講義をまとめた『憲法の急所』(羽鳥書店)は、「東大生協で最も売れている本」「全法科大学院生必読の書」と話題に。近著に『テレビが伝えない憲法の話』(PHP新書)、『未完の憲法』(奥平康弘共著、潮出版社)、『憲法の条件〜戦後70年から考える』(大澤真幸共著、NHK出版)、『集団的自衛権はなぜ違憲なのか』(晶文社)などがある。

憲法学を志した理由をお聞かせください。また、ご専門である憲法訴訟論とは?

 憲法学のなかにも様々な専門分野がありますが、私が専門とする憲法訴訟論とは、訴訟の場で憲法をどう使うのか考える学問です。民法や刑法は、もともと訴訟を前提に定められた法律なので、訴訟や判例を研究することは当然であり、あえて民法訴訟論や刑法訴訟論とは言いません。しかし憲法学では、国家論や憲法史など、様々な研究分野があるので、訴訟や判例の研究を憲法訴訟論と呼んでいます。憲法訴訟は、主に人権に関係していますから、人権を訴訟の現場で実現するための学問ともいえるでしょう。

 多くの人は「人権なんて無くても別に困らない」と考えるかもしれません。しかし、その一方で、人権が無いと本当に困ってしまう少数の人がいます。私が憲法学を志し、なかでも憲法訴訟論を専門にした理由は、私自身が人権を必要とするタイプの人間であることはもちろんですが、本当に困っている人の権利を実現するために、役に立ちたいと思ったからです。

「人権」とはどのように定義されるのでしょうか。

写真:木村草太さん

撮影/細谷 聡

 人権は、「人間であるという理由だけで保障されるべき権利」と定義されます。ただ、それが具体的にどんな権利なのか、人が人として生きていくために絶対に必要な権利とは何かを具体的にイメージすることは、今の日本ではとても難しいことかもしれません。なぜなら、いまの日本では、特定の宗教を信じるかどうか、あるいは、特定の新聞やテレビを見たかどうか、といったことを理由に逮捕されることはありません。私たち日本人にとって、人権が保障されることは当たり前になりすぎて、それがない状態をイメージできないからです。空気のありがたさを意識することがとても難しいのと同じですね。これは、今の日本の人権状況が極めて高い水準にあることを意味しています。

 実際、紛争地域や苛烈な人権侵害状態にある外国では、理由なく逮捕されたり、政府を批判する新聞を読んでいるところを見られただけで密告の対象になったりするような地域も決して珍しくはありません。そう考えると、私たちが当たり前だと思っている人権が保障されない社会は、極めておそろしい社会であるということに気づくことができるのではないでしょうか。

日本で基本的な人権が保障されているのは、やはり、憲法のおかげなのでしょうか。

 もちろん、憲法があってこそのことです。憲法とは、私たち人類がこれまでにおかしてきた過ちのリストみたいなものです。例えば、宗教弾圧で多くの人を不当に苦しめてしまったとか、公正な裁判をせずに無実の罪で多くの人が死んでしまったとか、そういうことを反省し、「これはやってはいけない、あれはやってはいけない」と書いてあるのが今の憲法なのです。

 例えば、明治憲法(大日本帝国憲法)は、アジアで最初に西欧的な憲法を定めたという意味では歴史的価値の高い憲法ですが、そのもとで、日本国民はたくさんの失敗をしました。最大の失敗は太平洋戦争でしょう。また、人権侵害という点でも多くの問題がありました。例えば、出版法・新聞紙法が定められ、表現の自由はひどく制限されていました。内務大臣や外務大臣の判断で、新聞記事の差し止めを命じることができたのです。現代で例えるなら、「TPP 交渉が国民に知られると支持率が下がるから、TPPに関しては一切新聞に書いてはならない」という命令を出すことができたわけです。出版禁止命令を受けた本もたくさんありました。公権力が世論を操作したり、政府批判の言論を弾圧することができたのです。

 こうした失敗への反省を重ねてきたからこそ、日本国憲法では表現の自由が非常に強く保障されているのです。苦い経験とそれに対する反省が憲法に盛り込まれた結果だといえるでしょう。

「憲法は国家権力を縛るもの」という立憲主義の観点からすると、人権は“国家に守らせるもの”ということになるのでしょうか。

 もちろんそうです。立憲主義の大きな柱は二つあって、一つは権力分立、もう一つは人権保障です。人権を侵害しないように国家を縛る、これは憲法の重要な役割です。また、国家の側から見れば、人権リストは、過去にしでかしてきた失敗のリストですから、そこに触れることをするときは、「今、自分はかなり危ないことをしている」と自覚する必要があるでしょう。例えば、焼酎を3杯以上飲んで、酔って暴力的になった過去があるため、「3杯以上は飲まない」とルールを決めた人がいたとします。もし、その人が3杯目を飲む状況になったら、当然、慎重にならなくてはなりませんよね。人権というリストもそれと同じです。

 国家と国民は非常に非対称の関係にあります。つまり、国家は国民に対して権力を持っているので、相手の意思を無視して強制できてしまう。だから、権力が濫用されないように、人権が尊重されているかどうか、より注意深くなる必要があるのです。

では、なぜ私たちは、市民や企業などに対して「人権を守りましょう」と言えるのでしょうか。

 人権が確立する歴史過程で、人権侵害の主体として意識されたのは国家だったので、人権は“個人”が国家に要求する権利という在り方になっています。しかし、人権が人間であれば当然に認められる権利なのだとしたら、国家以外の主体による人権侵害も当然許されないでしょう。たとえば、労働者は生活がかかっていますから、雇用者からひどい扱いを受けても、そう簡単には辞められません。圧倒的な権力を握っているという意味では、企業も国家に近いということになり、企業による人権侵害も防がなければならないという考え方になります。そのために労働基準法や労働契約法があるのです。

憲法のなかに「差別とは何か」について規定はあるのでしょうか。

 憲法14条に「法の下に平等」であって、かつ「差別されない」と書いてあります。日本国憲法は1947年に施行されましたが、平等条項と差別されない権利を分けている憲法は非常に珍しいです。ほとんどの国の憲法では、「平等」は書かれていても、「差別禁止条項」は書かれていません。したがって、これに関しては、進んでいるといっていいでしょう。

 不平等と差別は同じ文脈で使われることもありますが、きちんと区別すべきだと思います。不平等とは、目的に照らしたときに、不合理な区別が生じていることです。これは客観的に認定できます。一方で、差別とは、行為者の主観的な蔑視感情や反感のことをいいます。人間の類型、つまり、性別や人種などに向けられた蔑視感情、これが差別の定義であり、それに基づく行動が差別的行為です。もっとも、定義は大変明確なのですが、ある行為をしたときに、それが差別に基づいているかどうかの判断は簡単ではありません。例えば、企業の採用で、女性の応募者が全員落ちた場合、「これは女性差別ではなく、労働能力の観点から選考した結果、たまたまそうなっただけのことです」と言われたら、差別とは断言しづらいですよね。このように差別問題は、定義は簡単なのですが、認定が難しいのです。そうしたところもあって、差別禁止法は作りづらいのだと思います。

「差別されない権利」というのは耳慣れない気がしますが。

 昔のアメリカ南部では、列車、学校、ビーチなど、さまざまな場所が、黒人用と白人用に区分されていました。今なら、だれもが「黒人差別だ」と思うでしょう。しかし、当時の最高裁は「黒人と白人は、まったく異なり、相互に憎しみも持っているため、一緒にすると喧嘩になり、治安が乱れる。だから分けましょう」と説明しました。これは有名な「Separate but equal」という、「分離すれど平等」の法理と呼ばれるものです。

 この問題については二つのアプローチがあります。一つは平等権からのアプローチ。平等権では、区別に正当な目的があり、その目的の達成に役立つ区別であれば不平等ではないと解釈します。逆に言えば、区別する目的が不当であるか、その目的に役立たない区別だけが、不平等とされます。この考え方は、黒人差別の現場では有効ではありません。なぜなら、黒人と白人が喧嘩になるのは、南部の社会ではある程度、“事実”だったからです。喧嘩を防ぐために人種を分離するのは不平等ではない、となってしまうのです。

 しかし、その後、「人種分離は差別である」と解釈されるようになりました。すなわち、人種分離は黒人への蔑視感情に基づく制度であり、国が差別を助長するような制度をつくってはいけないというもう一つのアプローチに議論が進んでいったのです。

 日本でも平成25年に、最高裁判所は、非嫡出子(注1)の法定相続分を嫡出子の相続分の2分の1とする規定を違憲と判断しました。これまでは、婚姻保護という目的のために必要な区別で、不平等ではなく合憲としていたのですが、非嫡出子に対する差別を国家が助長することになると指摘し、違憲としました。「差別されない権利」からのアプローチが有力になった結果でした。

 したがって私は、平等権と差別されない権利は違う権利であって、その射程も違うため、両者は分けて議論したほうがいいと考えています。

今、都民が考えるべき人権課題とは。

 例えば、最近では同性婚が話題になりました。性的少数者をどのようにして社会で認め、受け入れ、当事者にとって生きやすい社会にしていくかを考えていくことはとても大切なことだと思います。ほかにも、今、東京ではイスラム教徒の人口が増えています。日本では多くの料理に豚肉が使われていることもあり、彼らが日本で暮らすにはまだまだ不自由だったりします。そうした少数派の問題に、もっと目を向けていく必要があると思います。また、沖縄に基地が集中する状況に対して沖縄の人たちがいう「沖縄差別」が気になっています。本土の人たちが無意識的に「基地は沖縄に置いておけばいい」と、つまり、沖縄にだけ押し付けても不正義ではないという感覚を持っているとしたら、それは差別といわれても仕方がないでしょう。東京には横田基地がありますから、基地がどれだけ負担かは理解できるはずです。今一度、沖縄の方たちの「これは差別ではないか」という声に耳を傾けてほしいと思います。

人権問題を考えるうえで必要な視点とは?

 アメリカやフランスの人権宣言が200年以上前につくられたのに比べて、日本国憲法は制定されて70年にも満たないものですから、人権条項が充実しているなど非常に先進的な思想に基づいています。とはいえ、差別や人権問題というものは、圧倒的多数の人にとっては、なぜ困っているのかがよく分からないという性質の問題です。したがって、困っている側の主張に耳を傾け、なぜ困るのか、どれだけ困っているのかを「想像する力」を持つことが大切だと思います。憲法を学ぶことは、実は小説を読むのと同じように自分の世界を広げてくれるものだと思います。自分とは異なる人の立場になって考えること、それが、人権問題を考えるきっかけになるのではないでしょうか。

 注1  非嫡出子:法的な婚姻関係にない男女の間に生まれた子。

インタビュー/林 勝一(東京都人権啓発センター 専門員)
編集/那須 桂

冊子表紙

『憲法の創像力』
木村草太 著 NHK出版 刊

ブログ/木村草太の力戦憲法
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東京都人権啓発センター5周年記念事業『人権に出会う一日』

シンポジウム「人権都市の条件とは─東京/日本/世界」

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