東京都人権啓発センター

TOKYO人権 第59号(平成25年8月30日発行)

インタビュー

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ハンセン病を生きて この世に生を受けて良かったなと思う

ハンセン病は不治の病、恐ろしい伝染病などとみなされ、患者は法律により療養所へ強制的に隔離されました。感染力が極めて弱いことが明らかとなっても、特効薬により治る病気となってもなお、隔離政策は1996(平成8)年まで続いたのです(注1)。東京都東村山市にある国立療養所多磨全生園(たまぜんしょうえん)に暮らす山内きみ江さんは、子どものころにハンセン病を患い、後に完治した回復者の一人です。ハンセン病のことを知ってもらいたいと、明るく前向きに生きる姿が印象的な山内さんにお話をうかがいました。

PROFILE

写真:山内きみ江さん

山内きみ江(やまうちきみえ)さん

1934年、静岡県藤枝市に生まれる。1957年、国立療養所多磨全生園に入所。同年、入所者の定(さだむ)と結婚。2001年、養女を迎える。2005年、全生園近くのマンションに転居。定は持病悪化のため園に残る。2010年、孫誕生。2011年、定、死去。同年、全生園内に戻る。多磨全生園に入所してから、漢字をおぼえるために俳句を始め、その後、知人の勧めで五行歌を書いている。毎月専門誌に投稿している。

【五行歌】

幼くて 手足が 萎えて いじめに耐えた この手足

萎えし手に 握手した 可愛い手 大きい幸せを つかんで欲しい

ハンセン病の症状はどのように始まったのですか?

 私は1934(昭和9)年に静岡県藤枝市の貧しい山村に生まれました。9人兄弟でしたが、11歳上の兄と5歳下の妹と私の3人以外は小さいうちに亡くなっています。私は幼いときから体が弱く、小学校へ通うのもやっと。通学時に雨が降っていると、父におんぶをしてもらい登校するような子どもでした。7歳になるころ、耳の後ろに500 円玉くらいの斑紋(はんもん)が出ていたのですが、当時はさほど気にせず、でも、今になって思えば、それがハンセン病の始まりだったんです。

 手足の麻痺が始まったのは、“大東亜戦争”が始まってから数年後の10歳頃だったと思います。感覚が麻痺していることは自分でも気づかないですから、お風呂やご飯を炊くときにやけどが絶えない。氷の張ったバケツの水で雑巾をしぼっても平気。周囲からは「不死身」と言われて、私は呑気にも「人様の苦労が分からないで済むのだから幸せだな」なんて思っていました。

 戦争が激しさを増すと、小学生の私たちも竹やりを持たされ、敵軍に見立てた藁人形を突く練習をさせられるようになりました。でも、私は手が麻痺しているために力が入らず、うまく突くことができなくて。すると、先生は「敵だと思って本気でやれ!」と私を叱りました。私は生意気な子どもでしたから、こう言い返したんです。「先生、アメリカの兵隊さんは藁人形みたいに弱いんですか?」って。そうしたら、「非国民!」と怒鳴られ、お尻を鞭で叩かれましたよ。

 終戦を迎えたのは、私が小5のとき。そのころには両手両足が完全に麻痺していて、私は中学への進学をあきらめました。小学校を卒業後、私は紡績工場へ就職したのですが、指先の感覚がないために、糸をつなぐという肝心な作業ができず、2週間で解雇。すっかり沈みこんでいるところに、今度は神経痛が全身を襲ってきて。トイレにも行けないくらいに痛い。さすがに我慢がならず病院へ行くと、診断は「幼児性慢性関節リウマチ」。本当はハンセン病だったのに、それから長いことリウマチの治療を受け続けたのです。

写真:山内きみ江さん

療養所には、どのように入所されたのですか?

 紡績工場を解雇されてからは、近所の洋服屋さんで子どものお守りや注文取りや仕立ての手伝いをさせてもらったりしながら、8年ほど実家で暮らしていました。あるとき、洋服屋さんの主人があるお客さんから「あの女中さんはらい病じゃないだろうか。子どものお守りさせていたら危ないよ」と言われたようです。そこで私のことをとても気にかけてくれていた兄嫁が病院に連れて行ってくれたんです。私が兄の下の子をおんぶして、兄嫁が上の子の手を引いて、4人で病院へ行きました。すると、お医者さんが看護婦さんに「子ども二人を連れて外に出なさい」と言ったんです。その異様な雰囲気から、私は察しました。そして、一通りの診察を終えたお医者さんに、私は自ら言ったんです。「人払いするほど悪い病気ですか?私は『らい病』なんですか?」と。するとお医者さんは戸惑った様子で「随分、麻痺が多いですね。大事なことだから私の口から病名は言えないけど、あなたの言う通りです」と。でも「もうこれだけ長い間、家族と一緒にいて、誰にも症状が出てないのなら、今さら療養所に入る必要はない。診察したことは伏せておくから今までどおりに家族と暮らしたらどうですか」と言われました。でも、「らい病」という事実がある以上、家族とは一緒に暮らせないと思いました。実は、私が住んでいた村には38軒あり、そのうち4軒に、「らい病」患者がいました。「うつる病気」、「髪が抜ける」、「顔がくずれる」などの噂が飛び交い、「村八分」にされるのを身近で見てきましたから、患者とその家族がどれほどの差別をされるかは容易に想像できました。特に、婚期を控えた妹に迷惑をかけたくないと思い、私は、お医者さんにこうお願いしたんです。「私は療養所に入ります。でも、保健所にはどうか内密にしてください」と。保健所に通知されると、大勢の人が家の消毒に来て、近所に知られてしまうからです。そんなふうにして、1957(昭和32)年1月、22 歳の時に、私はハンセン病の療養所である多磨全生園に来ました。それからは、患者さんのお世話をさせていただいたり、お裁縫の技術を生かして患者さんの寝間着を縫ったりしながら、生活をしていました。

最愛の定(さだむ)さんとの生活はどのようなものでしたか。

写真:山内きみ江さんと定さん

全生園にて。結婚する直前の2人
(1957年11月)

 ここに来て3ヶ月後に夫と巡り会い、その半年後に結婚しました。夫が31歳、私は23歳でした。夫は1943(昭和18)年に、18歳で全生園に入ったそうです。私は恋なんて知らずに育ちましたから、夫にプロポーズをされたときは本当にうれしくて。でも、そんな幸せも束の間のことでした。当時、ハンセン病の患者同士の結婚には、断種(注2)が絶対条件。結婚当初、夫は肝硬変を患っていて、体重は40キロほどでした。そんな衰弱した体に断種の手術は酷だと思い、手術は私が受けると夫に伝えました。すると、夫は「女房の体を子どもができない体にするなんて、男として面目が立たない。だから、断種は自分がする」と言い張りました。手術を受け、痛々しい姿で帰宅した夫の姿を思い出すと、今でもつらい気持ちでいっぱいになります。

 でも、50年以上、夫と一緒にいろいろな苦労を乗り越えてきたことは、それ自体が私の財産です。普通の夫婦には経験できない深い人生を歩むことができたのは、夫のおかげであり、ハンセン病のおかげだと思っています。

全生園の外で生活をしようと思ったのはなぜですか。

 全生園に来て50 年近くが過ぎ、裁判で判決(注3)がでた頃、「人生を終える前に全生園の外へ出たい」と思うようになりました。それで、最初は賃貸物件を探したのですが、70歳という高齢のうえ、障害がありますし、何より全生園の住所を書くとすべて断られました。それで、国から支払われた賠償金全額を現金で支払うからとお願いして中古のマンションを買ったんです。しかし、その頃、夫の病状はとても悪く、最終的に夫は療養所の外に出ることを断念しました。夫は「俺は、お前の根性と努力に惚れたんだ。社会に出たいという希望をかなえ、俺の分までやりたいことを存分にやってきなさい」と言い、私の背中を押してくれたんです。その言葉のおかげで、私は「10年間は頑張ろう」と決意することができました。今でもハンセン病への偏見や差別が残るのは、皆が後遺症とはどんなものか知らないから。だから治っていても社会は認めてくれないのだと思います。ですから私が社会に出て、後遺症をさらけ出すことで理解してもらいたいと思ったのです。2005(平成17)年、私は全生園を退所し、マンションでの生活を開始。機会があれば、自分の経験を人に話しました。パソコンが使えればネットショッピングができて便利だと知り、パソコンの使い方も懸命に覚えました。夫のところへは毎日通いました。盆と正月は10日間ずつ、夫がマンションへ来て、夫婦水入らずの時間を楽しみました。

 でも、2011(平成23)年1月、夫が旅立ってしまって。3月には東日本大震災が起き、私は心身ともに衰弱してしまい、10年は頑張るという決意を、6年半で断念せざるを得ませんでした。そんなわけで、再び全生園で生活をしていますが、全生園を出た6年半は、かけがえのない時間だったと思っています。

ハンセン病から得たもの、そして、今後の抱負をお聞かせください。

写真:山内きみ江さんと孫

恐る恐る初めて孫を抱く (2010年、写真集『生きるって、楽しくって』より)

 ハンセン病から得た宝物、それは娘と孫です。私たち夫婦は、2001年に養女を迎えました。その当時、娘は高校生でやんちゃ盛り。子育てをしたことがない私たちが、突然、反抗期真っ只中の女子高生の親になるわけですから、手こずって当然ですよね。衝突した回数は数えきれません(笑)。そんな娘も結婚をして、元気な男の子を生んでくれました。国の尊い税金で養ってもらっているのだから、養女をもらうなんてとんでもないとも思いました。しかし、娘とは随分と傷つけあいましたが、愛情をいっぱい注いでいっしょに苦労をして世の中のことを学ぶことができました。孫が生まれるまでの6年間は私を人間として育ててくれたと思います。子育ても経験させてもらい、孫を抱くこともできました。“4回目の成人式”まで、あと少し!悔いが残らないように生きたいと思います。

 子どものころはいじめられ、つらい戦時中をくぐり抜け、療養所では、夫婦になり、親にもなりました。自分がハンセン病にならなければ、差別をされる人たちの痛みや苦しみをわかる人間にはなれなかったと思います。震災後、福島の子どもたちが県外の避難先で差別をされたり、いじめにあっていることを他人事には思えないのも、そのためです。震災の翌年、被災地をお見舞いしたくて足を運びましたが、もう一度訪問したいです。風評被害の苦しさを分かっている者として、被災地の皆さんが安心して暮らしている姿をこの目で見てから、夫のところに行きたいです。

インタビュー/林 勝一(東京都人権啓発センター 専門員)
編集/那須 桂
取材協力・撮影/片野田 斉
ヘアメイク/石川 智子

注1:ハンセン病は「らい菌」により末梢神経や皮膚が侵される感染症。かつては「らい病」と呼ばれたが、差別や偏見が横行していたころの呼称であることから、今日では「らい菌」を発見した医師の名前にちなんで「ハンセン病」と呼ばれる。1907年、「癩(らい)予防ニ関スル件」が制定され、患者の収容が始まり、1931年、「癩予防法」により全患者の絶対隔離が開始される。患者たちは強制的に全国の療養所に収容され、家族や友人、地域からも分断され、治癒後も、その多くが一生をそこで送ることを余儀なくされた。現在、療養所は全国に国立13施設、民間1施設がある。

注2:日本のハンセン病政策は隔離・根絶を基本理念としたため、結婚を希望する患者に対し、子どもができることのないよう断種手術が行われていた。

注3: 国の隔離政策を憲法違反として提訴された国家賠償請求訴訟で、2001年、熊本地裁は国に約18億円の支払いを命じる原告勝訴判決。政府が行政責任を認め、控訴を断念。全患者・元患者に対して補償を決定。

写真展  ハンセン病を生きて

― 山内定・きみ江夫妻の愛情物語 ―

写真:子どもたちに笑いかけるきみ江さん

「全生園を出てマンションへ転居したころ、片野田さんが来て写真を撮ってくれるようになりました。最初はハンセン病のことはほとんど知らなかったみたい。お刺身をもってきてくれたりして。弟のようです(笑)」。夫妻に出会った報道写真家・片野田斉(かたのだひとし)さんが、定さんが亡くなったあとも、生活に寄り添いながら記録し続けた写真展を開催中。

冊子表紙

『生きるって、楽しくって
─ハンセン病を生きた山内定・きみ江夫妻の愛情物語』

撮影・文 片野田斉
2012年(クラッセ)

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