東京都人権啓発センター

TOKYO人権 第57号(平成25年2月28日発行)

インタビュー

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祖国に二度捨てられた人々 中国残留孤児とその家族の現在を知ってほしい

第二次世界大戦末期の混乱のなか、日本への引き揚げがかなわず、中国に残留を余儀なくされた日本人が数多くいます。その中には、親が命を落としたり、親とはぐれてしまった多くの子どもたちがいました。いわゆる「中国残留孤児」です。戦後、日本と中国の国交がなかったこともあり、日本政府は長きにわたり、残留孤児の問題に目を背けてきました。1972年に国交が回復してからは帰国者も増えましたが、帰国者の苦労や苦悩についてはあまり知られていません。ノンフィクションライターで、中国残留孤児だった父親を持つ城戸久枝さんにお話をうかがいました。

PROFILE

写真:城戸久枝さん

城戸久枝(きどひさえ)さん
ノンフィクションライター

1976年、愛媛県生まれ。ノンフィクションライター。大学在学中に中国の吉林大学へ2年間国費留学。出版社勤務を経て2005年からフリーに。日本生まれの中国残留孤児二世。『あの戦争から遠く離れて--私につながる歴史をたどる旅』(情報センター出版局、2007年/文春文庫、2012年)で第30回講談社ノンフィクション賞、第39回大宅壮一ノンフィクション賞などを受賞。本書は「遥かなる絆」と題してNHKでドラマ化される(2009年、全6回)。その他の著書に『長春発ビエンチャン行--青春各駅停車』(文芸春秋、2011年)がある。

お父さんが残留孤児になった経緯は?

 残留孤児の方々の背景は、一人ひとりでまったく異なります。それぞれに1 冊の本が書けるほどです。満蒙(まんもう)開拓団として家族で満州(現在の中国東北地方)へ渡ったケースが多いのですが、私の祖父は満州国軍の軍人でした。祖父は出身地の愛媛で祖母と結婚し、夫婦で満州へわたり、父はそこで生まれたのです。

 敗戦間際の1945年8月9日、ソ連軍が国境を越え、満州に侵攻してきた際、父はソ連に程近い勃利(ぼつり)という場所に住んでいました。当時3歳だった父はソ連軍から逃れるため、避難列車に乗ることになったのですが、軍人だった祖父は一緒には逃げられず、祖母は、そのとき腸チフスにかかり意識不明の重体でした。ですから父は知り合いの中国人に抱えられ列車に乗り込んだそうです。しかし、その列車がソ連軍の機銃掃射にあってしまいました。命からがら茂みに身を隠し、攻撃が終わるのをジッと待っているうちに列車は走り出してしまったのです。父は一緒だった中国人と共に何日も歩き続け、頭道河子(トウダホフーズ)村という小さな村にたどりついたのです。父は、その村に住む子どものいない女性に引き取られ、大切に育てられました。

どのように帰国を果たされたのですか。

写真:城戸久枝さん

撮影/小河原 俊男

 父が高校3年のとき、交心(こうしん)運動と呼ばれるものがありました。これは、中国共産党にいかに忠誠を尽くしているかを一人ひとりが発表をするものです。同級生たちに引けを取らぬ発表をした父に、ある同級生が声をかけました。「日本人のくせに、それを隠したまま、共産党に忠誠を尽くすとは、どういうつもりなんだ!」と。そして「日本鬼子(リーベングイズ)」と日本人を侮辱した罵りの言葉を浴びせられたそうです。父は、自分が日本人であることはごく親しい知人以外知らないと思っていたようですし、中国人の両親に育てられ、中国人として生きてきた自負があった父にとって、この出来事は運命の分かれ道になりました。父は、高校に提出していた履歴書の民族名を「漢民族」から「日本民族」へと修正しました。その結果、大学受験では政治審査で二度にわたり不合格となり、教職には就いたものの、「日本国籍」を選んだために、仕事も失ってしまいました。

 それを機に、父は日本に手紙を書き始めます。本名も誕生日もわからず日本語も忘れている父にはほとんど手がかりがありません。日本赤十字社宛に中国語でわずかな手がかりを記し、「私の身元を探してください」と手紙を送り続けましたが返事は全く戻ってきません。父が出した手紙は300 通を超えました。初めて手紙を出してから8年後の1967年、赤十字社から届いた封書の中に、両親からの手紙が入っていたんです。そのときに父は、両親が生きていること、そして「城戸 幹(きど・かん)」という自分の名前を知ったのです。

 でもその頃、中国では文化大革命があり、出国の許可が出ません。待つこと3年、1970年にようやく許可が下りて、香港経由で日本に帰国できました。日中国交回復が1972年のことですから、父はその前に帰国したということになります。

お父さんの歴史をたどり始めた理由とは?

 私が小さかったころ、父は時折、帰国した方と電話で話すことがありましたが、電話で話す中国語が、近所の人に聞かれるのが嫌で、真夏でも家中の窓を閉めてまわったものです。子ども心に父が中国から帰国したことを人に知られたくないと思っていました。

 大学3年のときに、父から「中国に行ってみないか?」と言われ大連の地に立ったとき、「ああ、父はこの国で育ったんだな」と感じました。その後、吉林(きつりん)大学に2年間留学しました。その留学の直前に、父から、ダンボール箱を渡されたのです。その中には、日赤宛に父が書いた手紙がありました。すべて中国語ですから、当時の私に、その内容まではわかりませんでしたが、父の字であることはわかりました。しかし、手紙の最後にあった名前は「城戸 幹」ではなく「孫 玉福(スン・ユイフー)」という全く馴染みのない中国名だったんです。その見知らぬ名前を見たときに、私が知らない28年間がそこにはあると実感しました。その28年間を娘の私が書き残さなくてはいけないと思ったんです。そこから、私なりの調査や取材が始まりました。

残留孤児の方々が国を訴えた思いとは。

写真:旅行中の城戸さん親子

頭道河子村(旧満州、現中国黒竜江省)のそばを流れる牡丹江のほとりに立つ城戸久枝さんと父・城戸幹さん 。(2008年11月)

 これまでにおよそ2,500人の残留孤児が帰国しました。その多くは帰国時には40代、50代になっています。すでに中国で結婚し、子ども、場合によっては孫の世代を連れて帰国する人が大多数です。

 ですから普通、「残留孤児二世」というと、中国に取り残された日本人と中国人の間に生まれた人のことを指します。でも、私の場合は、帰国した父が愛媛に戻り、結婚し、生まれた子どもですから、父も母も日本人なんですね。二世であることに間違いはないのですが、特殊な二世だといえます。

 私の父は28歳で帰国し、その後、定時制高校に通いながら、会社員として働き、日本語もきちんと習得し、定年になるまで30余年にわたり働くことができました。ただ、父のようなケースは非常に稀なのです。

 残留孤児の方々は小学校さえ出ておらず、自分の名前と住所以外は中国語でも文字を書けない人も多いのです。そんな状態で日本へ帰国する人は、働こうにも働けません。日本語を一から学ばなければなりませんが日本語をしっかりと教えてくれるような制度はありません。仮に仕事に就いたとしても、コミュニケーションがうまくいかず孤立してしまう人が多い。それは残留孤児本人だけではなく、二世や三世にも同様のことがいえます。そうしたことから帰国者の7割程度が生活保護に頼らざるをえない状況でした。でも、彼らだって本当は自立したいんです。本当なら生活保護なんて受けたくない。それにも関わらず、生活保護に頼らざるをえない状況になってしまったのは、国が早期の帰国支援や生活支援を怠ったせいだというのが、2002年以降各地で提訴された国家賠償請求訴訟の原告団共通の思いだったといえます。

 結局は、国が従来よりも拡充した支援策を示すことで、原告は和解しましたが、彼らが最も求めていた“明確な謝罪”はうやむやになった感じはします。生活保護に代わる支援金が出るようになり生活が楽になった人ももちろんいますが、思いを残したままの人もいるのです。

 中国では日本人と蔑まれ、日本では、「日本人なのに、なぜ日本語が話せないんだ」などと言われ、孤立してしまう。結局、祖国に二回捨てられたんですね。“中国で捨てられ、日本に帰国しても捨てられた”というのが残留孤児たちの気持ちですから、その思いに日本政府は応えてくれたのかどうかだと思うんです。もっと早く帰国の支援をしてくれたら、そして帰国後、充分な生活支援をしてくれていたら、今のように日本社会のなかで孤立する状況にならなくて済んだのです。

今、直面している課題とは。

 残留孤児の方々は、高齢化の問題が深刻になりつつあります。ほとんどがすでに70歳以上です。高齢者向け施設に行っても言葉の壁が邪魔をして、他の入居者とうまくいかないという問題は度々聞きます。そうなると、結局は地域で孤立して老々介護をすることになります。また、一世は日本語がままならないために、病院に行くときなど、子どもや孫に付き添いを頼まざるを得ない。通訳代わりとなる二世や三世が学校を休みがちになるといった問題もあります。

 二世や三世について言えば、まず、帰国時の年齢によって状況は大きく異なると思います。20歳を過ぎて、ゼロから日本語を習い始めた人は、一世と同じように、言葉や文化の壁に直面してしまう。一方で、小学生くらいで帰国した人たちは、日本社会には馴染みやすいかもしれませんが、中国語を忘れてしまう。そうなると、家族内でのコミュニケーションが難しくなる。親は日本語を充分に話せませんから、親子なのに、ちょっと込み入った話になると、会話が成立しない。こうした状況は、三世になるとさらに深刻です。一世のおじいちゃんと孫は全く話せないということになります。これは決して珍しいことではありません。

 また、こうした問題の他にも、残留孤児そして二世、三世にはネガティブなイメージが常に付いてまわることも極めて理不尽だと思います。一部の二世らによる“不良グループ”の印象からか、悪いイメージを持たれがちです。歴史的な背景や事実をよく知らないままに批判を受けることもあります。社会になじめず孤立し、仕事につけないのはなぜかを考えてほしいのです。新聞にそのことを寄稿しましたが、書くことで余計に印象づけてしまうのではないかと悩みました。しかし二世の友人に「私たちには書けないけど、あなたが書くことで多くの人に知ってもらいたい」と言われました。

「残留孤児」について知らない世代がいると聞きます。

 中国残留孤児が注目されるようになったのは政府が集団訪日調査を始めた1981年以降です。日本へ来て、肉親捜しをして、涙の対面を果たす。一定の年齢以上の方の中には、テレビで流れるそうした光景に、感動の涙を流した方もいらっしゃると思います。私が父のことを書いた『あの戦争から遠く離れて』はNHKでドラマ化されて、大きな反響もありました。しかし肉親に出会い、帰国した“その後”が問題なのです。「祖国なのに冷たい」と感じ、日本になじめないで苦しんでいる帰国者の方々のことに関心を寄せてくれる人は少ないのです。

 「中国残留孤児」という言葉を知らない世代が増えています。若い世代に知ってもらうことが、私の役目です。若い人たちが、残留孤児のことを話題にしてくれたり、親の世代と話してくれればと思います。決して忘れてはならない問題なのですから。そして帰国者のなかには社会的に成功をおさめた方もたくさんいます。日本と中国どちらの文化も知っていて、どちらでも苦労をしている帰国者の方々はとても貴重な存在だと思うんです。その「力」を、日中の架け橋を築くうえで有効に活用していけると嬉しいですね。

インタビュー/林 勝一(東京都人権啓発センター 専門員)
編集/那須 桂

写真:冊子表紙

『あの戦争から遠く離れて』
情報センター出版局 刊
(文春文庫版も刊行中)

写真:DVD表紙

『遥かなる絆 DVD-BOX』
発行:NHK エンタープライズ
販売元:ポニーキャニオン

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