東京都人権啓発センター

TOKYO人権 第56号(平成24年11月27日発行)

特集

ここから本文です

水俣病は今なお続く 検診を希望する患者は東京にも

誰もが知っている公害病の一つ、「水俣病(みなまたびょう)」。しかしながら、今なおその症状に苦しむ患者が全国にいることは、あまり知られていません。患者が抱える症状、そして、偏見や差別に苦悩してきた歴史について、今一度、正しく理解することは、現代を生きる私たちにとって、とても大切なことだといえます。

水俣病はどのように起きたのか

顔写真:高岡 滋さん

神経内科リハビリテーション
協立クリニック(水俣市)院長
高岡 滋さん

 水俣市は、熊本県の南端に位置し、東京湾よりひと回り小さな内海、不知火海(しらぬいかい)に面しています。同市にあるチッソ株式会社(現:JNC)が、この海にメチル水銀を含んだ排水を無処理のまま流しました。そして食物連鎖を通じてメチル水銀を蓄積した魚介類を食べた人々の健康を冒しました。これが水俣病です。

 水俣病患者が公式に確認されたのは、今から半世紀以上前の1956年のことです。しかし、それ以前から、漁村では猫が狂い死ぬなどの異変は起きていました。当初、原因不明の奇病とされていましたが、1959年には、熊本大学が有機水銀説を発表し、原因がほぼ特定されました。しかし、経済成長を邁まい進しんしつつあった当時のチッソや政府、それに経済界は、それを認めようとしませんでした。その結果、排水は実に1968年まで流され続け、汚染と被害は拡大したのです。

不治の病を背負い続ける人々

水俣の地図

 水俣病が公式に確認された当初は、けいれんを起こし、錯乱状態となり、発病から数週間、数ヶ月で亡くなる急性劇症型と呼ばれる重症患者が数多く出ました。今現在、水俣病と診断される患者の多くは、頭痛や手足のしびれ、耳鳴りなどの慢性的な症状を抱えています。また、母親が妊娠中に汚染魚を食べたことで、胎内で影響を受けた胎児性患者もいます。大脳の中枢神経を冒す水俣病は完治することはありません。

 不知火海沿岸一帯で検診をすすめる協立クリニックの高岡滋(たかおかしげる)医師は、「汚染された魚を多食していた不知火海周辺全体が被害地域です。患者が十万人以上いても不思議ではありません」と言います。「これまで地域全体の健康調査はされていませんから、被害の実態は不明です。最近の検診によって、行政が定める対象地域の内外で、症状に差がないことが明らかになりはじめています。海には海流があり、魚は回遊します。それに魚は行商で山間部へも運ばれました。ですから地理的に線引きすることには無理があります」。

 これまでに熊本、鹿児島県により認定されて補償金を受け取った患者は、わずか2273人。裁判の取下げと以後、認定申請しないことを条件に未認定患者が和解に応じた1995年の政府解決策の対象者は約1万人。しかしこれが“終わり”ではありませんでした。それ以後も被害を名乗り出る患者は増え続け、2012年7月末に受付が締め切られた特別措置法にもとづく「救済策」への申請者は、6万人以上にのぼりました。

 高岡医師は、「今回、これだけ多くの申請者が出た背景には、加齢に伴い症状が悪化あるいは顕在化した人が増えてきたことがあります。今は自覚症状がなくても、この先、発症、悪化する可能性のある方がいるということです」と言います。その一方で、一度は検診に申し込んでも、後から家族の反対で検診を取りやめる人もいるといいます。こうした背景にはどのような事情があるのでしょうか。

被害を名乗り出ることの難しさ

顔写真:成元 哲さん

中京大学 現代社会学部教授
成元 哲さん

 急性劇症患者が出始めた当初、奇病と恐れられ、“伝染病”との噂が広まりました。患者がでた家は村八分にされ、住民同士のきずなは崩れていきました。魚が売れなくなることを恐れて、病状を伏せる人たちもいました。原因が明らかになっても、誤った認識を払拭するのは容易ではありません。縁談が取り消されるなどの差別は続きました。

 過去最大規模となる沿岸一帯の生活・健康調査をおこなう中京大学の成元哲(そんうぉんちょる)教授は、次のように話します。「1995年の政治解決の際に、名乗り出なかった人の中には、自分が『あの水俣病』と同じだとは思わなかったし、思いたくもなかった。しかし様々な症状はある、という相反する複雑な心境にあった人々がいます。『あの水俣病』とは、狂死していった初期の急性劇症患者のイメージであり、“皆が忌み嫌う奇病”という意識によるものです。辛く酷い差別を間近で見聞きしている人はなおさらです」。しかし地域社会のなかでは徐々に「あの人も名乗り出た」ということが分かってきます。「同じ集落に暮らし、同じように魚を食べ、同じ症状に苦しむ被害者がこうして分断されているのです。前回は手を挙げず、今回申請した人々が生きる地域の姿を丁寧に理解する必要があるのです。被害者はまだいるでしょう。結婚や就職で水俣地域を離れた人たちのなかにもいるはずです」。

異郷で孤立する水俣病患者

 埼玉県に住む男性(68歳)が、水俣病について具体的に知ったのはつい3年前のことでした。幼いころから鹿児島県の長島にある不知火海に面した漁村に暮らし、叔父が網元だったこともあり、毎日、魚を食べていたそうです。1964年、高校卒業とともに上京し就職。「症状が出始めたのは36、7歳頃です。夜寝ていると足がつる、歩いていてもつまずく。病院に行っても原因は不明。激しい症状の人が水俣病だと思っていたので、歳をとって体力が落ちたんだろうと思っていました。3年前に長島にいる兄弟から『水俣病の症状はないか』と聞かれ、自分の症状を言ったら『それが水俣病だ』と」。長島からは現在、多くの申請者がいますが、「差別を恐れて諦めた人も多いと思います。私だって、退職していなければ名乗り出なかったかもしれません。それに、チッソに勤めていた父や、当時同じ暮らしをしていた母も、もし生きていれば対象になったはず」と話します。

 熊本県の横浦島出身で現在、東京で理容店を営む女性(72歳)もまた、最近まで水俣病に対する知識をほとんど持っていなかったそうです。漁師の家に生まれ、結婚後は御所浦島に23歳まで暮らしました。「朝昼晩、魚ばかり。他にないですからね。水俣湾から獲ってくることも。あそこが一番獲れたんですよ」。島で授かった二人の子どもには「離乳食で魚をすりつぶして食べさせました。もしかしたらお腹のなかで病んでしまったのかもしれません。私は、30代後半から視野が狭くなり、夜中に何度もギューッと足がつるようになりました。もう痛くて痛くて。耳鳴りは年中、手先もしびれます」。この女性は、3年前、島に帰省した際に初めて水俣病検診を受診。医療費が補助される手帳を交付されました。「自分が水俣病だなんて考えもしなかった。今思えば、亡くなった父も母も兄弟も、島の人はみんな水俣病ですよ。みんな苦しかっただろうなあって。主人も同じ症状があるし、症状が出始めている息子と娘の将来が不安でなりません」。

 水俣病は決して過去の問題ではないのです。半世紀以上を経てなお、不治の病を抱えながら生きる多くの人々がいることを、私たちは知る必要があるのではないでしょうか。

画像:水俣病の歴史図

インタビュー/林 勝一(東京都人権啓発センター 専門員)
編集/那須 桂

このページの先頭に戻る