東京都人権啓発センター

TOKYO人権 第52号(平成23年11月25日発行)

インタビュー

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人は人とつながってこそ生きられる グレートジャーニーに見る「幸せ」のありかた

探検家でもあり、医師でもある関野吉晴(せきのよしはる)さんは、1993年、アフリカに誕生した人類がユーラシア大陸を経て、南米大陸で拡散していった軌跡を逆からたどる「グレートジャーニー」へ旅立ち、2002年にゴール。計5万キロにもなる旅の様子はテレビでも放映され、多くの感動をもたらしました。その後、2004年にスタートさせた「新グレートジャーニー 〜日本列島へやってきた人々〜」は、2011年6月に完遂。

世界を旅し、多くの異文化に触れ、多様な人々との交流を重ねてきた関野さんに、「幸せ」をキーワードにお話しをうかがいました。

PROFILE

写真:関野吉晴さん

関野 吉晴さん
(探検家・医師)

1949年、東京都墨田区生まれ。探検家・医師。一橋大学法学部、横浜市立大学医学部卒業。一橋大学在学中に探検部を創設し、アマゾン川全流を下る。医師として勤務しながら、南米へ通い続け、1993年より、アフリカに誕生した人類が南米大陸に拡散していった約53,000kmの道のりを遡行する旅「グレートジャーニー」を開始。南米最南端の島から出発し、2002年にアフリカのタンザニアに到着。2004年からは「新グレートジャーニー 日本列島にやって来た人々」シリーズをスタートさせ、インドネシア・スラウェシ島から沖縄県石垣島までの4,700kmにおよぶ「海のルート」の航海を2011年6月に成功させた。著書に『グレートジャーニー全記録1(移動編)我々は何処から来たのか』『同2(寄道編)我々は何処に行くのか』(いずれも毎日新聞社刊)他多数。現在、武蔵野美術大学教授(文化人類学)。

写真:航海中の舟

海のルート4,700kmをGPSやエンジン無しで航海した2艘の舟。
奥が原始的な工法で作られた丸木舟“縄文号”

─ どうして世界を旅しようと思ったのですか?

写真:インタビュー風景

撮影/小河原俊男

 子どものころから、日本の外へ出て行きたいという気持ちがありました。学校と野球の毎日で、目標らしきものもなく、そんな自分を変えるには、環境を変えるのがいいのかなと。それと、ぼくは5人兄弟の末っ子で、父親は教育者でとても厳格な人だった。親のすねをかじっている間は、親の言うことを聞けと言われていて、高校生になってもアルバイトは禁止。だから、自分の好きなことを自分の思うがままにやれるという状態に大きな憧れがあったんです。それで、大学に入ってからは仕送りも断り、アルバイトで稼いで、日本とは違う文化圏に行くぞって。そんな思いで、1971年、22歳のときに、探検部の仲間とアマゾン川全流を下ったんです。それからはアマゾン一色でしたね。法学部だったのに、卒論はアマゾンの探検記だったくらいですから(笑)。大学を卒業してからも南米一筋で、25年の間に南米を訪問した回数は32回になりました。

─ 南米一筋だった関野さんが、グレートジャーニーへと旅立ったのはなぜですか?

 理由は2つあって、1つは南米に通い続けているうちに疑問がわいたから。南米の先住民はモンゴロイドなのですが、自分の外見に似た人がアジアだけではなく、南北アメリカにいる。それが不思議だったんです。それで調べてみたら、人類の発祥はアフリカだと分かった。それで、そのルーツを自分の足でたどりたいと思ったんです。もう1つの理由は、南米ばかりを訪問した結果、南米に関わる多くのことを「当たり前」だと思ってしまう自分がいて、一度南米の外に出てみようと思ったからです。

写真:先妻の肖像画とウラジミルさん

強制収容所に入っている間に亡くなった先妻の肖像画をもつウラジミルさん

 足掛け10年、通過国は35カ国ですから、気づいたことはたくさんあります。ぼくにとっての旅は仕事ではなくて、「遊び」なんです。誰かのためではなく、自分のため。テレビを観た方から「勇気づけられた」なんて言われると、それは嬉しいけれど、そのために旅をするわけではありません。でも、その場所でしか得られない物の見方や考え方があって、それらはすべてかけがえのない気づきなんです。

 多様な文化や人々に出会うと、「幸せ」ってなんだろう?って考えさせられることがあります。シベリアで出会った八十歳のポーランド出身のおじいちゃんは、旧ソ連時代に強制収容所に入れられていて、人生の大半をそこで過ごした人です。二十歳で収容所に入れられて、本当なら最も輝いているはずの青年期に過酷な労働を強いられ、その間に奥さんや子ども、肉親すべてが亡くなってしまった。でもお会いしてみたら、驚くほど穏やかな表情なんです。そして、「自分はここまで生きられてラッキーだった」って笑顔を見せるんですよ。彼は「ラッキー」という言葉を使ったけど、ぼくには「ハッピー」に見えました。ぼくたちにとっての当たり前のこと、つまり、家族と一緒に暮らせるとか、好きな仕事に就けるとか、そういうことを彼は「大切なこと」として捉えている。だから、それを手に入れた今を彼は「ラッキー」だと言い、それを噛み締めている彼を見て、ぼくは「ハッピー」だと感じた。「ハッピー」は、周囲をも幸せにするんです。

─ 「ハッピー」であるためには何が大切だと思いますか?

写真:道具を持ったコエグ民族の男性

関野さんと義兄弟の関係を結んだコエグの男性

 ぼくが訪ねた先住民社会では、みんなが「ハッピー」でした。自分と自分の家族だけが良ければいいなんて考えは、彼らにはありません。獲物が獲れたらコミュニティの全員で分けあう。でも、日本を含め、先進国はどうだろう? 自分と自分の周囲のことだけしか気にしない人が増えているんじゃないかって思います。

 ほかにも、水、空気、大地なんていうものは、ぼくたち人間が幸せであるためには不可欠なものですよね。あって当然だと思っているかもしれないけど、今、この瞬間も環境汚染は進んでいる。こうしたかけがえのないものをないがしろにして、経済活動が大切だなどというのは、本末転倒です。経済の問題は分配すればどうにでもなるんです。お金でも物でも、一部の人だけが蓄えを増やしていく社会は、いつか滅びます。必要としている人のところに、必要なものが流れていく。人類の歴史上、助けあう社会だけが生き延びることができた。日本も昔は、コミュニティがしっかりとあって、困ったときには助けあっていたはずなんです。でも豊かになるにつれて、いつのまにか、コミュニティの存在が薄くなり、蓄える社会になってしまいました。

 エチオピアのコエグという民族は、蓄えない人たちです。ぼくがコエグの人々を訪ねたとき、村の男性からひょうたんに入った蜂蜜をもらってとまどったことがありました。彼らにとって蜂蜜は非常に貴重なものですからね。あとから知ったのですが、この先住民には、「ベルモ」という義兄弟のシステムがあるそうなんです。つまり、ベルモの関係を結んだ相手とは、困ったときに助けあう。コエグは農業中心に生活をしているのですが、不作のときには、ベルモを結んでいる遊牧民に肉を譲ってもらう。もちろん、その逆もある。ぼくに蜂蜜をくれた男性は、ぼくとベルモを結び、困ったときにはお互い助け合おうよということだったんです。彼らは、モノを蓄えることで生き延びようとするのではなく、人とつながって支えあうことで生きているんですね。

─ 日本は、先住民社会に見習うことが多そうですね。

写真:大木とマンダールの人

船体用に伐り出した大木の上でマンダールの人たちと

写真:主食の米を炊くマンダールの人

マンダール人は航海中も毎日船上で主食の米を炊く

 そうですね、今の日本は、人とつながらなくても生きていけますよね。ともすると、誰とも関わりを持たずに生活できてしまいますから。買い物だって、情報だって、パソコン1台あれば済んでしまう。でも、ぼくは、生きるということは、人とつながることだと思うんです。人は2度死ぬといいます。1度目は肉体が死んだとき。2度目は人の記憶から消えてしまったとき。そう考えると、人とつながりを持ちながら生きないと、生きていることにはならないのかなって思うんですよ。

 東日本大震災のあと、SHAREという国際保健NGOを通じて宮城県・気仙沼市へ、医療支援に行きました。そのときにも、「人は人とつながってこそ生きられるんだな」って思いましたね。震災後、関東では買い占め・買い溜めが問題になりましたが、東北ではそうしたことがほとんど起こらなかった。それどころか、東北の人は、支援物資さえなかなか受け取らない。なぜだと思いますか? 東北にはしっかりとコミュニティがあるからなんです。自分さえ良ければという考え方ではなく、地域の人同士で助けあおうという考え方なんですね。ただ、助けあいながらも、個人を尊重することは大切です。それは、民族や文化においても同じです。自分と異なるものを批判するのではなく、認めあう姿勢が大切だと思います。

─ 「新グレートジャーニー」を終えられたご感想は?

写真:砂浜で作業中の風景

千葉県・九十九里浜で鉄製工具の材料になる砂鉄集め

写真:ふいごを踏む日本人の大学生たち

たたら製鉄で代わる代わるふいごを踏む日本人の大学生たち

写真:並べられた工具

完成した工具の数々

 新グレートジャーニーは、自分の足元を見つめる旅でした。人類の拡散をたどるグレートジャーニーを終えて、「ぼくたち日本人はどうやって日本列島へ来たんだろう?」と思ったんですね。それで、2004年から新たな旅に出ました。シベリアを経由して北海道・稚内までの「北方ルート」、ヒマラヤの南からインドネシア、朝鮮半島を経由して対馬までの「南方ルート」、そして、黒潮の流れと航海術を利用し、南西諸島を経由して九州南部に到達した「海のルート」の3通りをたどりました。最後の海のルートは約4,700km。2007年秋にインドネシアのスラウェシ島を出発して、2011年6月に沖縄の石垣島にゴールしました。太古の人々と同じ航海をしたかったので、船を作る道具作りから始めました。工具の材料の砂鉄を集めるところからです。その道の専門家の方々の指導のもと、斧やナタなどを作り、船にする大木を伐って、カヌーを作りました。もちろん、帆もロープも塗料もすべて自然界にあるものです。途中、島々に寄り、薪や水を補給して、釣った魚を食べて、星と島影を頼りに航海しました。

 航海中は、日本人4名とスラウェシ島に住む、伝統的帆船の造船・操船技術に長けたマンダール人6名が、2艘の舟に分乗したのですが、とても狭い舟のなかで24時間一緒にいると、当然平不満が募ってくる。でも、マンダール人は、いざこざを避けようとして、言いたいことを人づてで伝えてくるんです。思ったことをまっすぐ言わないところは、なんだか日本の若者に似ていますね(笑)。でも、ぼくは、迷惑をかけあえるつながりが本当のつながりだと思うし、本当の友達や家族なんだと思いますよ。

インタビュー/鎌田晋明(東京都人権啓発センター 専門員)
編集/那須 桂
旅の様子等の写真8点は関野さんの撮影

写真:冊子表紙

関野吉晴 著
『グレートジャーニー人類5万キロの旅 1~5』
(角川書店)

「海のグレートジャーニー」は2012年にテレビで放映予定です。
詳しくは「関野吉晴公式サイト」をご確認ください。

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