東京都人権啓発センター

TOKYO人権 第47号(平成22年9月8日発行)

特集

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人と人とを隔てる深い川に橋をかけたい

“反省猿”の次郎とコンビを組み、一躍お茶の間の人気者となった村崎太郎(むらさきたろう)さんは、二年前、妻である栗原美和子(くりはらみわこ)さんが書いた私小説『太郎が恋をする頃までには…』の中で、被差別部落出身であることを公表しました。同和タブー視の問題に正面から切り込み、世間の無関心と戦い続ける村崎さんに、カミングアウトの理由や、その後の変化などについて、お話をうかがいました。

PROFILE

写真:村崎さんと猿

村崎 太郎さん

1961年、山口県生まれ。17歳でニホンザルの次郎(初代)とコンビを結成し、途絶えた猿まわし芸を復活、次郎の“反省”ポーズで全国的な人気者になる。91年、「文化庁芸術祭賞」受賞。92年にはアメリカ連邦議会から「日本伝統芸」の称号が授与された。2007年7月、テレビ番組プロデューサーの栗原美和子氏と結婚。翌08年、被差別部落出身であることを公表。ここ数年は、日本各地の農家や漁村、限界集落、ハンセン病療養所や原爆の被爆者を訪ね、ともに語り合う「出会いの旅」を続けている。近著に『ボロを着た王子様』、妻・栗原氏との共著に『橋はかかる』(ともにポプラ社刊)。

自分の出自を誇るために猿まわし芸を受け継いだ

被差別部落出身であることを公表したのはどうしてですか?

 「わたしは被差別部落出身です」
そのことだけをきれいに覆い隠して、長い間猿まわし芸をやってきました。でも、自分の出自を語らないまま、この芸を続けていくことが、どうしてもできなくなってしまったんです。

 わたしが猿まわし師になった理由は「猿と一緒にかわいらしい芸がしたかった」からでも「有名人になりたかった」からでもなく、わたし自身が被差別部落出身であることと、深く結びついていました。

 猿まわしは被差別部落の人々が受け継いできた日本の伝統芸能で、1,000 年以上の歴史を持っています。明治以降この芸が各地で途絶えるなか、それが最後まで残ったのがわたしの故郷でした。ところが、芸人をとりまとめていたわたしの曾祖父が廃業したことがきっかけで、細々と続けていた芸人も一人減り、二人減り…そして完全に消滅してしまったんです。しかし1970 年代に、「部落の誇る文化を復活させよう」とわたしの父が尽力しました。わたしはその思いに応え、復活第一号の猿まわし師になったのです。

 猿まわしに対して最初はなんとなく「カッコ悪い」というイメージを持っていました。それに被差別部落出身だということを知られて蔑まれるかもしれないという不安もありました。けれど、そういう否定的なイメージは自分が人気者になることで塗り替えていけばいい、そう思い直したのです。誇りを持ってこの道へ進もう――そう心に決めました。

 だから、わたしの半生をテレビドラマにしたいと言って、後に妻となる栗原美和子が訪ねてきたとき、本当はこの話も入れて作って欲しかった。けれど結局、その時は言い出すことができず、「猿とお兄さんが東京へ出てきて頑張った末、芸術祭賞を取った」というどこにでもありそうなきれいで無難な話になってしまいました。

 誇りを持って猿まわし芸の再興を目指し、努力してきたはずなのに、なぜそんな肝心なことを隠したまま、ここまできてしまったのだろう? そんな自問を繰り返した末、たどりついた結論が、「もう嘘で塗り固めた人生はイヤだ! 」という強い思いだったのです。

カミングアウトに対する世間の反応はどうでしたか?

顔写真

 結婚後、2008年に妻が書いた私小説『太郎が恋をする頃までには…』が出版されたとき、世の中からの反応はほとんどありませんでした。どの新聞も雑誌も「“そのこと”を扱っている本は、うちではちょっと…」と言って書評を掲載してくれなかったのです。新聞や雑誌でさえそうなのですから、テレビやラジオなどの放送番組ではなおさらです。

 なにか特別な反応をしてほしいわけではなかった。そうではなく、「太郎さん、どうしてカミングアウトしたの?」と、ごく普通にみなさんが尋ねてくれることを、わたしは期待していたんです。

 ところが、妻の著書は危険視され、わたしは企業イベントなど、ビジネスに関係する催しには、一切呼ばれなくなってしまいました。こうしてあまりにも無反応を装う世間を目の当たりにして、同和問題に対するタブー視の強さを、あらためて思い知らされることになったのです。

 それでもわたしはあきらめず、2 0 0 9 年4月に『ボロを着た王子様』という本を書き上げました。四十年以上も封印してきた生い立ちを、今度は自分自身の言葉で綴った自叙伝です。

 ところが、肉親の反対を押し切ってまで出版にこぎつけたものの、世間に広がるタブー感を打ち破ることはできませんでした。それで、わたしは、もうどうしたらいいか、自分でもわからなくなってしまったんです…。

真剣に向き合うことで初めて大事なことが見えてくる

その後、日本全国をめぐる旅に出たそうですね。

 仕事の依頼も途絶え、悶々としていたある日、本当はみんなどう思っているんだろう? だったら、いろんな人と触れ合って直接話をしてみよう。そうすれば、何かが見えてくるんじゃないか、と思いたちました。そして、わたしは次郎とともに旅に出ることにしたんです。

 まず最初に訪れたのは、都市部にあるいわゆる限界集落(65 歳以上の高齢者が人口の50%以上を占める地域)でした。いつものように芸を披露し、自分の出自のことを語ってみる。そうしたら、いろんな人がいろんなことをごく普通に話せる場がそこにできたんです。そのときに「みんなで笑ったのは久しぶりだ」とつぶやいたお年寄りのことばがとても印象的でした。彼らが本当に欲しているのは、お金や支援じゃなく、そういう人と人との温かい触れ合いだったんですね。それはインターネットや本を読むだけでは決してわからなかったことです。

 その後、全国の寒村、ハンセン病療養所、児童養護施設、幼稚園や老人ホームなどを訪ね歩き、さらに被爆者の方々や水俣病の患者さんたちにもお会いしました。

 こうして旅を重ねるにつれて、わたし自身「何も知らなかった」ことに気づかされました。自分の狭い世界の中で、勝手に知ったつもりになっていたけれど、肝心なことは何もわかっていなかった。見ない、触れない、コミュニケーションしない、相手と向き合わないのでは、本当のことはなにも見えてこないんです。

 同じことは、猿まわし芸にも言えるんですよ。わたしは次郎が芸をしないときは、お客さんの前でも厳しく叱ります。すると、その瞬間だけを見て「ひどい! 」と言う人がいる。わたしは猿の優れた面をたくさん知っていますし、なにより猿を愛し、尊敬しています。そうでなければ猿まわし芸はできません。それに犬や猫など家畜化された動物とは違って、ニホンザルは野生動物ですから、芸ができるように調教するには、相当な覚悟が必要なんです。また彼らが人間から嫌われずに共存していくためには、芸を身につけることは一つの大きな手段でもあると考えています。物事の表面だけを見て判断する人は、猿を「かわいい、かわいい」と言いながら、じつは、人間よりも下等な動物だと見下してはいないでしょうか?

 いまの日本の社会は、みんなが敵対し合っているように見えます。本当の相手に触れようとせず、遠く離れたところから相手を記号のように単純化し、排除する。「あの人たちはこうだから」と決めつけてしまうと、わからないことへの恐怖感がいっそう増していく。これが差別を生み出す図式なのだと思いました。

もっと普通に自由に語り合えるように

差別の問題にどうやって向き合っていけばよいのでしょうか?

 被差別部落の出身者は全国におよそ300万人もいるといわれていますが、こんなにたくさんの人たちが自分の出自を隠さなければならないのだとしたら、この問題の深刻さがわかるでしょう。幸い、現在は昔のような厳しい差別があるわけではありません。だとしたら、本当はもっと普通に話せてもいいはずですよね。それなのに実際はそうじゃない。みんな知っているのにだれも触れたがらない。差別が陰で息を潜めている、そういう陰湿なこの社会の行く末が心配だったことも、わたしがカミングアウトに踏み切った理由の一つでした。

 強い決意を胸に、志をもっておこなったことだったけど…今でもたった一つ気がかりなことがあります。それは、最初の結婚相手との間に生まれた三人の子どもたちのことです。わたしのカミングアウトによって、突然「部落の血を引く子ども」になってしまったことに彼らは戸惑っているに違いありません。そしていまでは彼らとの連絡も途絶えがちになっています。自分の子どもだからこそ、力強く自分の人生を切り開いていってほしい、そう願っています。

 愛しい子どもたちのことを第一に考えたら、カミングアウトなんかとてもできなかった。だからわたしは、いまでも申し訳ない気持ちでいっぱいです。つくづく身勝手な父親だと思っています。そうやって、自分だけの問題では済まないだけに、つらいし、怖いです。しかし、だれかが真正面から切り込まないと、いつまでたっても解決に向かわない。そう思ったから、カミングアウトに踏み切りました。日本中が「人権問題」というなにか抽象的なことにして見て見ぬ振りをしているんです。

 よく聞く「差別してはいけません」といういかにも立派なご意見は、わたしには“ 上から目線”としか思えません。そんなふうに差別問題を他人事のように語る大人に育てられた子どもたちがまた大人になって、いまの日本をこんな殺伐とした国にしてしまったのです。このことに、みんなで向き合う時期が来ているのではないでしょうか。

 そして、心に傷を負っているすべての人たちにぜひ呼びかけたいのは「勇気を出して心の扉を開いてみませんか?」ということ。自分も最初はそんなこと絶対にできないと思っていたから、簡単じゃないのはわかっています。でも、思い切って自分のことを語れば、きっと相手も心を開いてくれる。それがどんどん連鎖していって…。「わたしは被差別部落出身です」と言いたい人は言える。それに対して、周りの人も自由に発言し、語り合えるようになる。そんな風通しの良い世の中になったらいいなぁ。わたしはそんな、人と人との間に「橋をかける」活動をこれからも続けていきたいと思っています。

文 山川英次郎

冊子表紙

村崎太郎+栗原美和子 著

『橋はかかる』

ポプラ社 刊
定価 1,365円(税込)

被差別部落出身であることを公表した村崎太郎。
ごく一般的な家庭に育った栗原美和子。
悪戦苦闘の3年間、少しずつみえてきた希望の橋。
今、すべての人に贈りたい、胸が熱くなる勇気と感動の本!

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