東京都人権啓発センター

TOKYO人権 第41号(平成21年3月27日発行)

特集

ここから本文です

禅僧から医師の道へ 身心一如(しんじんいちにょ)を体現する“僧医”

葬送に携わる仕事をテーマにした映画が話題になっています。生き、そして死ぬこと=命の問題を、さまざまな視点から見つめ直すための社会的機運のようなものが高まっているからかもしれません。対本宗訓(つしもとそうくん)さんは、臨済宗一派の管長という宗門の要職を辞してまで、意を決して医学の道に進まれました。対本さんが何を目指して、僧侶でもあり医師でもある“僧医”となることを志したのか、その思いについて話していただきました。

PROFILE

顔写真

対本宗訓さん

1954年、愛媛県生まれ。79年、京都大学文学部哲学科卒業。京都嵯峨天龍寺僧堂にて修行、平田精耕師に師事。93年、臨済宗佛通寺派管長に就任。国内およびヨーロッパにて坐禅指導や講演などをおこなう。2000年4月、帝京大学医学部医学科に入学。同年11月、佛通寺派管長を辞任。06年3月、帝京大学医学部医学科卒業。第100回医師国家試験に合格し、医師免許を取得。現在“僧医”として研鑽中。著書に『坐禅<いま・ここ・自分>を生きる』『禅僧が医師をめざす理由』『僧医として生きる』(すべて春秋社)

生と死の本質をもとめて宗教から医療の世界へ

なぜ僧侶から医師への道を進むと決意されたのでしょうか?

 宗教と医療。一見、交わらないもののように思われるかもしれません。しかし、私が様々な問題を考える上で、その不可欠の視点として医療というものがあったのです。

 医学を志す以前にも、私は宗教者として人の生老病死(しょうろうびょうし)にかかわりたいと思い、自分なりに模索して終末期の患者さんのケアに加わった経験があります。しかし、僧侶の立場のまま医療の現場に入っていくのはとても難しかった。そこには目に見えない壁があるかのようでした。僧侶の格好をした人が病院にいると、怪訝な顔をされるのです。きっと「坊さんと言えば葬式」というようなイメージが染みついているからでしょう。

 終末期医療においては、宗教者がスタッフとして積極的にかかわり、患者さんのこころのケアに応えられるよう体制を整えているホスピス等もあります。そうした施設においてキリスト教の牧師さんがするのと同じように、仏教の僧侶も、亡くなろうとしている方の傍らでお話を聞くのは、本来、宗教者として当然の勤めだと私は思っています。しかし、世間一般ではそういう役割をお坊さんにはあまり期待していないように感じます。

 私は二十数年間、禅僧として修行し、心や魂のことについて勉強を積み重ね、仏典の言葉を借りてたくさんの人々に説いてきました。二千数百年の長きにわたって築き上げられた仏教の体系は、たしかに智慧の宝庫です。しかし、身体も元気で聞く気のある方々にとっては有意義なものであっても、現実の老いや病気に苦しみ、死に直面している方々にとっては、なかなか耳に入っていかないのが実情です。

 緩和ケアの現場で僧侶の私が痛感したのは、医学知識の欠如でした。医師が患者さんの身体症状に応じて処置を施すのと同じように、当然、僧侶も患者さんの状態に応じて言葉をかけなければなりません。患者さんの病状は刻一刻と変化しますが、医学知識がなければそれを理解するのは難しいでしょう。身体から切り離された心など、どこにも存在しないのですから。

 一方、多くの医療従事者たちもまた、言葉を持っていませんでした。なぜ人は死ぬのか。なぜいま自分が死ななくてはいけないのか。死の恐怖にどう対峙すればよいのか……。薬で身体の痛みを押さえることはできても、末期患者たちのこころの痛みに対しては、科学は為す術がありません。命の終わりに立ち会わねばならぬときの無力感、割り切れなさ。それを後ろから支えるものが現代の医学には足りないという声を何度も聞きました。

 仏教の“身心一如(しんじんいちにょ)”という言葉で表されるように、身体と心はけっして切り離せないものだと私は思います。どちらか一方だけをわかっていても、それは一部分でしかありません。やはり心身両面からでないと、全体としての人間をとらえることはできないのです。医学の対象は生命科学としての“命”であり、宗教の対象は心や魂としての“いのち”です。両者が表裏一体であるならば、現代に生きる僧侶は生命科学としての“命”の領域をも知る必要があります。そういう努力をしていかなくては、やがてだれも僧侶の言葉などに耳を貸さなくなってしまうだろうと私は思いました。

 では、だれが、どのように宗教と医療の橋渡しをするのか――何度も自問し、最終的に得た内なる声が「この自分がやるしかない」でした。これが医師への道を志し、医学部への入学を決めた理由です。

プロセスとしての死をゆるやかな共同体の中で共有するために

幼いころ“死”が怖かったとお聞きしました。

対本宗訓さんの写真

 私は寺の息子として生まれ、人の死を身近なものとして育ちました。檀家数250軒あまりの山寺でしたが、月に1〜2軒は葬儀があったと記憶しています。

 しかし、小学校4年生のある日、初めて檀家さんの葬儀で寺の小僧としてのお勤めをしたときのことです。出棺の際にご遺体のお顔を目にしてしまい、その瞬間、私は凍りついてしまいました。当時は最近話題の納棺師などいませんでしたから、生前とは変わり果てた姿のままに納棺されていました。“物体としての亡骸(なきがら)”の有り様に、私はのどに捧を突っ込まれたようなショックを受けたのです。それまで、身近な人の死に接したことがなかったので、私には心の準備ができていなかったのでしょう。この体験がきっかけで「死が怖い」と思うようになりました。

 その後も度々、私は寺の小僧として葬儀の勤めをはたしました。そして、成長するにつれて、「人はどうして死ぬのだろうか」という思いが、私の中にくすぶるようになっていきました。大学に進学して哲学を専攻したのは、死の問題について考えたいと思ったからですし、禅僧としての修行を積んでいるときも、“生と死”という人生の一大テーマはずっと頭を離れることはありませんでした。

“プロセスとしての死”とは何でしょうか?

 死には、さまざまな形があります。事故や急性疾患など突発的な死もありますが、ほとんどの場合、死はゆっくりと訪れます。

 闘病生活に始まり、病状の進行とともに気力・体力が衰え、意識が低下します。苦痛に耐え、人生を振り返り、ときに運命を呪い、絶望と希望を繰り返す…。こうした一連の過程を経て、やがて肉体の死がやって来ます。このように、死には時間的な幅があります。

 また、本人が亡くなった後も遺された者の喪失感はすぐに消えるわけではありません。本人の死後もなお、そのプロセス(過程)は続くと言えます。ですから、死の経験は亡くなる本人だけのものではありませんし、肉体の死をもってすべてが終わると考える“点としての死”では、死=生の本質はけっして見えてきません。

 このような“プロセスとしての死”を知ることになったのが、実父の死でした。その時、私は30代半ばでしたが、すでに禅僧としての修行経験が長く、知識もそれなりにありました。それで慢心していたのかもしれません。幼いころに感じた死への疑問に対する答えはもう十分に持っているつもりでした。しかし、そうではなかった。それは僧侶として檀家さんの葬儀を執り行うのとはまったく違っていました。私は家族として肉親を病院に見舞い、看病をし、その死を看取る過程を経験しました。その時はじめて死は生のプロセスの一部だと心の底から理解できたのです。父は身をもってそれを教えてくれたのだと思います。

 ですから、終末期医療の現場はまさに“いのちの教育”の場なのです。必ずしもホスピスなどでなくとも構いません。まずは、特別な場所ではなく今いるところで、皆さんそれぞれに死のプロセスを大切にしていただきたいのです。そうすることがより良き生を全うすることにつながるのではないでしょうか。

 仏教では“縁起”を大事にします。縁起という言葉は、本来、人と人とが支え合う緩やかなつながりのことです。私たちが、そうした緩やかな共同体の中で死のプロセスを共に体験していくために、普段から死についてもっとオープンに語り合っていくべきだと私は思っています。

今後、僧医として目指すものは?

 これまでにもおこなってきましたが、講演のご依頼には時間と体力がゆるす限りお応えしたいと思っています。人生や社会のさまざまな問題を考える上での基本となるような「“死”とは何か、“いのち”とは何か」といったお話を求められることが多いのですが、生老病死(しょうろうびょうし)にまなぶ僧と医の双方の視点から、私自身の率直な言葉で語りかけていくよう心がけています。

 医療者はどこかに自分自身の心の拠り所や、自分なりの死生観を持っていなくてはなりません。そうでなくては患者さんを看取ることはできませんし、寄り添うこともできないからです。そのために私は、ドクターとしても、宗教者としても、さらに知見を深めていかなくてはならないと感じています。

 私が目指す緩和医療の分野は、幅広い知識が必要とされていますので、内科を基本として、さらに精神科、特に、がん患者の心の問題を扱う精神腫瘍学(サイコオンコロジー)の視点もあわせ持ちたいと考えています。

 おかげさまで、今年(2009年)の二月で初期臨床研修を終えることができました。今後の進路については、私の宗教者としての背景や僧医としての思いをたいへんよくご理解いただいているドクターの方々との出会いがあり、そのご縁にしたがって首都圏の病院とクリニックで医師としてさらなる研鑽に励むつもりです。

 そして、患者の皆さんにとって、本当に僧医という存在がお役に立てるのかどうかを模索し続けていきたいと思っています。一人でも多くの方々により良き生を全うしていただけるように、医療の現場で“修行”を続けていくつもりです。

文 山川英次郎

冊子表紙

『禅僧が医師をめざす理由』

春秋社

冊子表紙

『僧医として生きる』

春秋社

このページの先頭に戻る