東京都人権啓発センター

TOKYO人権 第34号(平成19年6月15日発行)

特集

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境界線は、わたし自身の、そしてあなた自身の中に(The line is me, the line is you)

シンガー・ソング・ライターの沢 知恵さんは、日本人の父と韓国人の母の間に生まれ、韓国、アメリカ、日本で育ちました。3カ国語で紡ぎ出す言葉やメロディは、力強く、しかし聴く者を癒すような不思議なやさしさにもあふれています。複雑な生い立ちをユーモラスに歌った《私はだれでしょう》や、人と人とを隔てる見えない境界について描いた《ザ・ライン》、みんなで一緒に歌える《リッスン・トゥ・マイ・ヴォイス》など、沢さんのコンサートは誰もが楽しめて、そしてちょっぴり考えさせられます。
毎年、国立ハンセン病療養所の大島青松園(おおしませいしょうえん)(香川県)でもコンサートを開催しているそうなのですが、そこにはどんな想いが込められているのでしょうか?

PROFILE

顔写真

沢 知恵さん

1971年、神奈川県川崎市で日本人の父と韓国人の母の間に生まれる。両親ともに牧師。母方の祖父は、韓国で文化勲章を受章し、日本では北原白秋らに高く評価された文学者の金素雲。幼い頃より韓国、アメリカ、日本で育ち、ピアノに親しむ。東京芸術大学在学中に歌手デビューし、現在までに15枚のアルバムを発表。96年より海外でもコンサート活動を開始。98年、韓国光州で行なわれた「KWANGJU JAPAN WEEK」にて、日本国籍を持つ者として初めて韓国国内で公式に日本語の曲(《こころ》と《故郷》)を歌った。同年、第40回日本レコード大賞アジア音楽賞受賞。2001年より毎年ハンセン病療養所大島青松園(香川県)で無料コンサートを開催。また、東京・下北沢「ラ・カーニャ」にて季節公演を行っている。

“見えない境界線”はわたしたちの中にある。

ご両親とも牧師で、お母さんは韓国人。3カ国で子ども時代を送ったそうですが?

 そういう両親のもとに生まれたことが、わたしにとってはごく当たり前で、子どもの頃は特に意識したことはありませんでした。両親の考え方にはとても影響を受けましたね。たとえば仕事などで一時的に海外に住んでいる日本人家庭のように「学校では外国語でも、家では日本語で話しなさい」とは、わたしの両親は言わなかったんです。家族の中でも共通の言語がありませんでしたから、韓国にいる間は韓国語で話し、アメリカにいる時は英語で、日本では日本語を話していました。ある意味でいいかげんな両親でした(笑)。自分の子どもをどの国の人として育てたいという思いがそれほど強くなかったんでしょうね。二人とも信仰が篤かったので、国籍とか民族的アイデンティティよりも、神様を大事にして信仰を継いでくれれば、他のことは大した問題ではないと思っていたんだと思います。おかげで、自己形成していく多感な時期に国や民族アイデンティティに思い悩むことはありませんでした。そのせいか、差別を受けた記憶もありませんし、いじめられた経験もありません。

 《私はだれでしょう》という歌は“川崎でうまれて あちこちで育ち 朝は納豆 夜はキムチ♪”という歌詞です。しかし、これはアイデンティティの葛藤から生まれたのではなく、そういうことにこだわることを笑い飛ばす歌なんです。大学生の時にスカウトされてデビューしたのですが、販売戦略の会議で「あなたはいったい何者なの?一言で説明してよ!」と言われて、とても困りました。人生を一言に単純化できるわけがないですよね。それで、いつも自己紹介に時間がかかるから歌にしてみたんです。“私はだれでしょう 私は私♪”って。どうせ歌うなら楽しく歌いたいでしょ。

 でも、在日コリアンの方々が、あの歌を聞いて涙されることがあって、それには驚きました。たしかに、私は私だ、と言いたくても言えない人たちがたくさんいる。そういう人たちにとっては、民族的アイデンティティの葛藤と重ねるわけですから、あの歌が応援歌のように感じられるのでしょうね。

さまざまな経験や想いをどのように曲作りに結びつけているのでしょう?

 作詞する時は何語で書くんですか?とよく聞かれます。盛岡スコ-レ高校というユニークな教育を実践している学校から校歌の依頼を受けた時は、3カ国語で作りました。最初に日本語で。でも、日本語から他の言語に翻訳して歌詞をつけるわけではないんです。メロディーと歌詞は一体のものですから、翻訳ではうまくいかない。わたしの頭の中はこっちの言語からあっちの言語へスイッチが切り替わるような感じになっていて、メロディーに合わせてその言語での自然な歌詞が思い浮かびます。

 子どもの頃、アメリカから日本に来た時に、その文化の違いに驚きました。アメリカでは他人と違うことが良いことだったのに、日本ではそうじゃなかった。すぐに自分を隠すことを覚えて適応しました。日本では自由であることがとても難しいと思います。だけれど、自由でなければ生きている意味が無いと思う。だから、わたしの音楽はとても率直です。人によって「すごく癒される」という場合と、逆に「率直さに心が揺さぶられてつらい」という場合に分かれるようです。癒しと痛みは、表裏一体。本当の意味での癒しは、痛みやつらさにちゃんと直面した上で、それを乗り越えなければ訪れません。

 たとえば、《ザ・ライン》という曲は恋愛経験をもとにつくりました。わたしはアイデンティティには悩まなかったけど、恋愛ではずいぶん苦しみました。おかげで歌がたくさんできて、元が取れましたよ(笑)。愛しているのに憎んでしまう。そんな苦しい思いをしていた時に、ふと「原因はわたし自身にあるんじゃないの?」と思ったんです。愛と憎しみを分ける線というのは、外にではなく、わたしの中にあることに気がついたんです。つまり二つの物事を区別する線は他ならぬわたしが作り出したものなんだ、“The line is me,” 境界線はわたし自身なんだって。そしてそれは、ほかのことにも当てはまるんじゃないか。そう考えると、“Where’s the line between love and hate♪” から始まって “man and woman” や “north and south” といったように、世の中みんなそうなんだ、と気づきました。

 曲にする時は普遍性を持つように作るので、どんな解釈をされても構いません。ただ、この《ザ・ライン》を日韓関係を歌ったテーマソングだと言われた時には、あえて「これはラブソングです」と強調しました。極端に言えば、すべての歌は愛の歌であるとも言えますから。わかりやすいメッセージを安易に求めてしまう風潮は良くないと思うんです。もっと想像を膨らませて自由に聴いてほしいなと思います。

大島青松園(おおしませいしょうえん)コンサートの客席は理想の社会の姿

大島青松園(おおしませいしょうえん)の皆さんとの出会いについて話してください。

 写真:笑顔の沢さん

TOMOE SAWA

 香川県にある大島青松園(おおしませいしょうえん)は、全国に13カ所あるハンセン病療養所のうち唯一離島に置かれている施設です。父がまだ神学生だった頃にこの島でボランティア活動をしました。1960年代でしたから、まだハンセン病への差別が強く残っていた時代です。父は島の療養所で暮らすハンセン病回復者の皆さんと兄弟のように仲良くなったそうです。その後、生まれて間もないわたしを島の皆さんに見せたくて、父はわたしを島へ連れていきました。それが1971年の夏、わたしは生後6カ月でした。「赤ちゃんにハンセン病がうつったらどうするんだ?」と、周囲からはずいぶん反対されたみたいです。しかし、父はこの病気について正しい知識を持っていましたから「そんなことは絶対にない」と言って強行しました。

 島の皆さんは、その日のことをまるで昨日のことのように覚えていてくれます。なぜなら、それまで島の皆さんは赤ちゃんを見たことがなかったから。ハンセン病の療養所では子どもを持つことは許されなかったのです。結婚の条件として男の人は断種。女の人はもしも妊娠したら堕胎。そんなつらい経験をしている島の皆さんにとって、子どもというのはあまりにもせつない存在です。そんな複雑な思いで、島の皆さんは赤ん坊だったわたしを抱いてくださったんです……皆さんのその時の気持ちを想像すると、本当に胸が締め付けられる思いがします。

大島青松園(おおしませいしょうえん)で毎年コンサートを開催するようになったきっかけは?

 「らい予防法」が廃止された1996年、20年ぶりに島へご挨拶に行ったんです。そうしたら、皆さん涙を流しながら「知恵ちゃん、よく来たね」と言ってくれたんです。何十年経っても人が人のことを覚えている!これほど深い愛があるでしょうか。あなたのことをいつも気にしている――その愛の深さに圧倒されて、わたしも泣いてしまいました。それ以後、四国で仕事があると、必ず里帰りのようにして足を運んでいます。

 何年か通ううちに、仲良くしてくれたおじいちゃんおばあちゃんが、ひとりまたひとりと亡くなっていきました。現在、全国の療養所入所者の平均年齢は78歳を越えています。一人でも多くの方が元気なうちに、いただいた愛情に対して何かお返しをしたいと思ったんです。自分だったらなにができるのか…。すごく悩んで考えた末に「あ、歌だ」と。どうしてすぐに思いつかなかったんだろう(笑)。

 昔は療養所には娯楽がありませんでしたから、島の皆さんは歌が大好きです。コンサートには島外から一般のお客さんも迎えます。アカペラで幕を開け、《リッスン・トゥ・マイ・ヴォイス》というリズムのとりやすい曲へつなぎます。すると小さい子は一緒に歌い、手で拍手のできない方は足で拍子をとるんですよ。あと、必ず《ふるさと》を歌いますが、そうするとみんないっしょに大きな声で歌ってくれます。

 大島青松園(おおしませいしょうえん)のコンサートでは、小さいお子さんからお年寄りまで様々なお客さんが一堂に会しますから、曲目を決めるのに的がしぼれなくて「どうすりゃいいんだー?」(笑)。このコンサートは、不思議と他とくらべて一番良いものになります。とにかく温かい。どんな人でも楽しめる。違いを持ったいろいろな人がひとつになれるコンサートなんです。年齢、性別、障害の有無など――あらゆる“ライン”を取り払った世界が、そこにあります。ステージから客席を眺めると「ああ、美しいなあ、世の中がこうだったらなあ」と感じます。そういう意味で、大島青松園(おおしませいしょうえん)のコンサートの客席は、あるべき美しい社会の姿だと思うんです。

 大島青松園(おおしませいしょうえん)は今、過渡期にあります。入所者数が少なくなってきたことが大きな理由ですが、統廃合に向けての動きが出てきています。入所者の皆さんは隔離政策で、生まれ故郷を奪われていますから、今まで暮らしてきた療養所が第二の故郷なんです。なのにどうして、希望通りに人生の最後をそこで送らせてあげられないのでしょうか。入所者の皆さんは再び故郷を失うことにとても不安を感じています。わたしがコンサートをやる意味のひとつは「ここに大島青松園(おおしませいしょうえん)があるよ」と世間の人々に訴えたいからなんです。

わたしが死んだ後にも「いい歌だよね」って言ってもらえたら

夢やこれからの希望について話してください。

 もっとメジャーな活動をすればいいのにとよく言われるのですが、大きく儲けようとすると不本意な仕事でも受けなければなりませんよね。それよりも、精神の自由の方がわたしにとっては大切です。「有機農法のように音楽活動してます」って言うとわかりやすいんじゃないかな。その時々の出会いを大切に地道に今の活動を続けていけたらなあと思っています。

 そして、わたしが死んだ後にわたしの音楽が残ればいいなと思っています。曲が流れた時に「ああ、この歌知ってる。いい歌だよね」と言ってもらえるのが夢です。

 商業主義にはまったく興味が無いんですが、武道館公演とグラミー賞受賞が夢なんです(笑)。ものすごく商業主義に聞こえるかもしれませんが、これは歌い手としての素直な気持ちです。武道館みたいなホールで歌えたら気持ちいいだろうなあ、グラミー賞みたいなすばらしい賞をもらって両親や神様に感謝の気持ちを届けたいなあ、と。もちろん、いままでの活動を大事にしながら、その延長上にそんな機会が訪れるなら……果たしてどうなることか。皆さん、どうぞ見守ってください。

取材・文 山川英次郎

りゅうりぇんれんの物語

CDジャケット表紙

沢 知恵さんの新作CD 2007年7月18日(水)発売予定

第二次大戦末期からの13年間を描いた、詩人茨木のり子の長編叙事詩。
実話にもとづく壮絶なドラマをピアノで弾き語る、70分超の1曲のみ収録。

cosmos records CMCA 2020 2,520円(税込み)

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