東京都人権啓発センター

TOKYO人権 第31号(平成18年9月25日発行)

特集

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アイヌ文化に輝きを…民族の誇りが息づく「古布絵」

アイヌの解放や、さまざまな社会運動にもたずさわってきた宇梶静江さん。宇梶さんは、古い布にアイヌ刺繍をほどこす「古布絵」作家としても、国内外にその名を知られています。その作品には、民族の誇りや、口伝・伝承によって受け継がれてきたアイヌの精神が宿り、また少女時代に受けたアイヌ差別に対する痛切な思いが込められています。そんな宇梶さんに創作のこと、民族の解放のこと、家族・同胞への思いなどについて語っていただきました。

PROFILE

顔写真

宇梶静江さん

1933年、北海道浦河郡生まれ。農業を手伝いながら詩作と絵心を育む。1953年、20歳のとき故郷を離れ札幌の中学に入学。卒業後に上京。1958年、東京生まれの和人男性と結婚。さまざまな社会運動に関わりながら詩作を続ける。1972年、同胞への呼びかけを新聞に投稿、大きな反響を得る。1975年、都議会に働きかけ、新宿公共職業安定所にアイヌのための相談員を置くことになり、初代相談員を務める。1996年、ウタリ協会の職業訓練校でアイヌ刺繍の技術を習得。2004年、アイヌ工芸作品コンテストで古布絵がアイヌ文化奨励賞を受賞。各国先住民族との文化交流、国外での講演活動多数。著書に、古布絵を使った絵本『アイヌの治造物語』(2006年・同成社)など。個性派俳優の宇梶剛士(うかじたかし)氏は長男。

脈々と受け継がれてきたアイヌの精神にふれるたびに自分が解放されていった。

古布絵創作は宇梶さんにとってどんな意味を持っていますか?

 わたしにとっての創作活動は、自分の生きる糧として続けてきたものです。生きていく上で、自分を勇気づけるためにやってきたことですから、じつはアーティストとして活動しているという意識はありません。

 わたしは小さな頃から絵を描くことが大好きだったのですが、そういったことは家族の中でも地域の中でも当時は疎まれる時代でした。「絵を描く暇があったら仕事をしなさい」とか「そんなことしている童は嫁のもらい手がなくなる」とか。学校では図画の時間に絵を描くことはありましたが、アイヌであるわたしの絵は一度も教室の壁に貼り出されたことがありません。とにかく、絵を描いてもまったく誉められなかったんです。それでも仕事の休憩時間などに馬小屋の陰に隠れて新聞紙の隅っこの余白などによく描いていました。

 そんな時代が長かったものですから、今でもわたしの中には「多くの人に評価されたい」という欲求はなく「好き」という気持ちがあるだけです。わたしがアイヌ刺繍を習い始めたのは62歳になってからでした。今でも誰かに叱られるんじゃないかと怯えていますよ。でも、そろそろ趣味を持っても叱られない年齢になったかなと思ったんです(笑)。ありがたいことに、今では賞をいただいたりすることもありますが、わたしが本当に望んでいたのは、小さな頃に描いた絵を、たった一度でいいから教室に貼り出してほしかった――もしかしたら、そういうことだったのかもしれません。

古布絵創作のきっかけや創作中の思いをお聞かせください。

 あるとき、デパートの展示会で布絵を知ったんです。「布で絵を作れるのか!それならこれで、“目で見るアイヌの叙事詩”も作れないだろうか」と、そのときひらめいたんです。そうしたら夜も寝ていられなくて、次の日にはシマフクロウの資料を探しに街にでかけてましたよ。シマフクロウというのは、村を守る神様としてアイヌがとても大切にしている鳥なんです。こんなふうにはじめた古布絵作りですから、私の作品の絵柄のほとんどはアイヌに脈々と伝わる数千の叙事詩をモチーフにしているんです。

 刺繍を施すために一針、一針、針を進めているときは、想像の世界に遊んでいる楽しい時なのですが、ふと「この刺繍の糸はどこからきたんだろう」って考えてみたことがありました。昔は木の内皮を水にさらし、指で細かく割いて糸を作っていました。それでは、生活の道具として使われてきた縄というのはいったいどこからきたんだろうと考えているうちに、縄を発明した祖先へと思いはつながっていきました。

写真:宇梶さんの作品

アイヌ叙事詩をモチーフにした古布絵作品

 ちょうどその頃、縄文土器発掘のニュースを何度か目にしていたのですが、「あのすばらしい土器に、なぜ縄を使って文様をきざんだのだろう」という疑問が湧いてきたんです。縄は家を作るのに木材をしばったり、ものを引っ張ったり、たくさんのものを結びつけることができます。縄文の頃、土器きに縄の文様を付けたのはお母さんたちでした。お母さんと赤ちゃんはへその緒という「縄」でつながっていますよね。古代の先住民とアイヌにはわりと近い自然観があって、アイヌの歌に「人の道を外れてしまったら、人ではなくなってしまう」という言葉がありますが、古代人にとっても人と人のつながりは大切なものだったのではないでしょうか?こんなことを考えているうちに、縄文土器の縄目は、きっと古代人のお母さんたちが、子どもたちが道をふみ外さないように願いを込めて標した道標だったのではないかと思えてきたんです。そしてその願いはアイヌの刺繍にもつながっているのではないかと。そう思うと、今まで受けてきた忌まわしい差別が、どんどん体の中から抜けていったんですね。

 アイヌは収奪のために武器を作って殺戮をしたことはありません。殺されたから殺すという敵討ちの発想もない。一族の指導者には人格者を選び、世襲にはしない。そういうことは強い信念を持っていなければ出来ないことだと思うのです。アイヌ刺繍を始めてから、わたしは深いモラルや哲学にもとづいたアイヌの精神をたくさんいただいています。そして、先祖たちの思いをさかのぼり、自分の民族について理解が深まるたびに、わたし自身が解放されていったんです。誇るべき文化が、わたしたちには受け継がれています。このことは、なんとしても同胞たちにも伝えていかなくてはいけません。自分たちの文化に誇りを持ち、自信を取り戻し、自分自身を愛してほしい。それがわたしの願いです。

二十歳前までは日高山脈の向こうに広がる世界を夢見て過ごした。

どのような少女時代を過ごされたのでしょうか?

 小学校の低学年だった頃、いきなり同級生から「アイヌ!」と罵られたことがあったんですよ。当時はまだ何もわからなかったのですが、母に「アイヌってなに?」と聞いても取り合ってくれないので「聞いてはいけないことなんだろうな」と察しました。学校での差別を感じるようになっていったのは、ちょうどその頃からです。

 生活を助けるために13歳から「出面」と言って余所の田んぼで仕事をやるようになりました。出面を一日やると米が2升もらえたんです。だから、毎朝5時に起きて、馬の世話や掃除をし、朝食を食べてから野良仕事に必要なものを背負って田んぼに向かうというような生活が19歳まで続きました。それでも、家から田んぼまでの道のりだけは自分の時間でしたから、歩きながらいつも縫い物をしているか、なにか本を読んでいましたね。そこで、ふと立ち止まって顔を上げると、彼方には日高山脈が連なっています。どれだけ働いても生活は一向に楽にならない。わたしは一生ここから抜けられないのかな、という思いを抱えていました。あの山を越えたらどんな世界があるんだろう、一度でいいから違う世界を見てみたい―いつもそう考えながら過ごしていました。

上京後、アイヌへの思いが高まっていった経緯を教えてください。

 東京に出てきて和人の価値観に合わせて暮らしているうちに、自分がどんどん汚れていくような気がしてきたんです。都会では嘘も簡単に通ってしまいますよね。たとえばアイヌだということを隠して「北海道の牧場主のお嬢さんだ」と言ったって通ってしまいます。これは恐ろしいことです。

写真:インタビュー中の宇梶さん

 結局、わたしは和人になりきれるわけでもなく、もちろんアイヌとして胸を張って生きているわけでもない。街中で同胞とすれ違っても、お互いに目を伏せたまま黙って通り過ぎていく―そんな生活に疲れてしまったからでしょうか、いつの頃からか、アイヌ同士が支え合える場を作りたいと思うようになりました。

 その思いを綴ったのが、1972年に朝日新聞へ投稿した「同胞よ手をつなごう、ウタリ(同朋)たちよ手をつなごう」という記事です。大きな反響をいただいたのですが、その多くは和人からでした。アイヌからは「せっかく平穏に暮らしているのに、差別を助長するようなマネをするな」という批判を雨あられのように受けたものです。

 それでもわたしを頼ってきてくれたアイヌの子どもたちを受け入れて共同生活を始めました。最初の頃に驚いたのは、目の前に料理を盛った皿を置くと、子どもたちが食べる前に上目遣いでわたしの顔をうかがうことです。おそらく食べ物に不自由するあまり、周囲を気にしながら食べることが習慣になってしまったんでしょうね。もう、過酷というか、残酷というか……だからわたしは知らん顔を決め込みました。すると2、3カ月後には普通に食べられるようになるんですね。そうやって無事にうちから卒業していく子もいました。それだけは本当に、わたしの自慢です。逆に言えば、それくらいしかわたしにはできませんでした。だから当時はもう、自分の子どもだけを可愛がってる場合じゃなかった。そのおかげで、後で苦労することにはなりましたけれど(笑)。

たくさんの人々の魂が生き生きと輝けるような世界にしていきたい。

今後の予定や活動について聞かせてください。

 今、一番やりたいのは、才能を持ったアイヌの同胞たちを育てて、多くのアーティストを世に出し民族解放の手伝いをしていきたいということです。わたし独りが有名になっても先祖はちっとも喜ばないと思うんです。だから、これまで私は自分の好きな創作を活動の外に措いてきました。

 アイヌの古い布をほどいてみると、小さな四角形がきれいに並んでいて、刺繍はきちんと左右対称になっています。ですから昔の祖先たちは、直感的に幾何学とか数学ができた人々じゃなかったかと思うんです。アイヌのおじいさんやおばあさんには刺繍でも、縄一本なうのでも、言葉では表現できないほど芸術的な“作品”に仕上げる人がいるんですね。それは学校へ行ったからと言って身に付く技術ではありません。多くの口伝や伝承によって、民族の中で育まれてきたものです。だからアイヌの中から学問で有名になる人は出なかったとしても、アーティストは生まれるだろうと思っていました。

 社会の中で和人との価値観の違いに疲れてしまっている若い同胞たちを長い間励まし続けてきたのですが、今ではそういった人たちの中から、アーティストが誕生してきています。そういう人が出てくるまでには本当に長い時間がかかりました。

 だからわたしが講演などに呼ばれた時には、そういう人たちも一緒に呼んでほしいと訴えています。そういう才能を見出して世の中に出していく。そのためにはみなさんの協力がどうしても必要なのです。アイヌのこの素晴らしい文化をもっと伝えていきたいんです。

 また、精神的兄弟である世界中の先住民と理解し合いたい。でも一番手をつなぎたいのは、じつはアイヌ同士なんです。わたしは同胞たちみんなに「差別に怯えるな」と言いたい。なにも恐れるな。せっかく光り輝く才能を持っているのだから、みんなで協力してやろうよ、と。たくさんの人々の魂が生き生きと輝ける世界を作っていけたら―そういうことに夢をかけながら、今後も活動を続けていきたいと思います。

INFORMATION

冊子表紙

宇梶さんの古布絵の絵本『シマフクロウとサケ』
福音館書店より9月30日発売予定

カムイミンタラ

冊子表紙

アイヌ文化の交流の場「カムイミンタラ(神々の遊ぶ庭)」が君津市にオープンしました。宇梶さんの弟・浦川治造さんが代表を務めており、アイヌ民具などが展示されているほか、木彫や自然体験も楽しめます。(千葉県君津市黄和田畑仲ノ台3-1 JR久留里線上総亀山駅下車、タクシー12分)

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