東京都人権啓発センター

TOKYO人権 第29号(平成18年4月1日発行)

特集

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介護をパフォーマンス・アートに変えてしまう現代美術のアーティスト

本号のゲストは、現代美術の鬼才として世界的に知られる折元立身さんです。代表作のひとつ「アートママ」シリーズでは、アルツハイマーとうつ病を患った母親の介護という現実をパフォーマンス・アートとして作品化。そのユニークかつリアリティあふれる作風は、海外でも高く評価されています。そこで今回の特集1では、折元さんに「アートママ」シリーズ創作のきっかけや母・男代(おだい)さんとの二人暮らし、福祉や介護に対する思い、そして今後の展望などについて、創作現場でもある川崎の自宅で語っていただきました。

PROFILE

折元立身さんの写真

折元立身(おりもとたつみ)さん

1946年、神奈川県川崎市生まれ。1969年に渡米。カリフォルニア・インスティテュート・オブ・アートに学ぶ。1971年、ニューヨークへ移住、ナム・ジュン・パイク氏の助手を務め、フルクサスの活動に参加。1977年に帰国、おもに欧米で作品発表とパフォーマンスを行う。とくに海外での評価が高く、シドニー・ビエンナーレ、サンパウロ・ビエンナーレ、ヴェネチア・ビエンナーレ、横浜トリアンナーレなど、世界に名だたる国際美術展に参加。代表作として、パンを顔につけて街頭に出没する「パン人間」のパフォーマンス、実母とのパフォーマンス「アートママ」などがある。また、折元さんの日常を追った書籍『介護もアート─折元立身パフォーマンスアート』(NHKにんげんドキュメント制作班+KTC中央出版編)を2003年、KTC中央出版より刊行。

介護という現実をアートへ。
それは作家としての自分のテーマにも通じていた。

折元さんはどのようにしてアーティストとしての道を歩んできたのでしょうか?

 子どもの頃から絵が好きでした。小学校、中学校のときの夏休みの絵日記では、文章よりも、絵ばっかり描いていました(笑)。中学2年のときにはもう、川崎の駅ビルで個展を開いていたぐらいです。

 ただ、ぼくは現役のときを含めて、7回も芸大(東京芸術大学)に落ちているんです。でも、当時学んでいた研究所の先生が「折元くんはもう作家になっている」と言ってくれました。「学校は教えるところだから、芸大もきみを必要としていないし、きみも芸大を必要としてない」と。それで進学をやめて、ちょうどその頃、ロスにいた兄貴を頼ってアメリカへ行く決心をしたんです。

 カリフォルニアの美術学校を卒業して、ニューヨークに移りました。そこで、ハプニングやイベントなどの“行為”を表現形式とする「フルクサス」という世界的に有名なグループの活動に参加しました。パフォーマンスという体を使ったアートが、ぼくにぴったりフィットしたんです。このパフォーマンス芸術を通して、現実にあるもの、つまりリアリティをアートにするという方法をニューヨークで学んだんです。

 ぼくが日本を離れたのは、まだ1ドル360円の時代。いまのようにいろんな情報が入ってくるわけじゃない。だからニューヨークでさまざまな人種の人々がコミュニケーションをとり合っている環境にカルチャーショックを受けてしまいました。そこで人間関係をテーマにして作品を創れないかと思うようになったんですよ。人種のるつぼと呼ばれる都市で生活するうちに「ぼくはアジア人なんだ」ということも強烈に意識するようになっていましたから、インドネシア、スリランカ、タイ、中国、フィリピンなどのアジア諸国へ写真を撮りに行ったり、顔にパンをつけて街中を練り歩くパフォーマンスを世界中でやったりしていました。

母の介護をテーマにした作品「アートママ」シリーズを創り始めたきっかけを教えてください。

母親・男代さんの写真

 7年ぶりに帰国してみたら、日本はちょうどバブルで景気がよかったんですよ。だから、しばらくは日本で活動をすることに決めました。ところがある日、親父が心不全で亡くなったんです。その後、今度は母が風呂場で倒れて車椅子生活になった。とにかく兄弟のなかで唯一、独り者のぼくが介護をすることになったのですが、そうするとこれまでのように外国へ行けなくなるんじゃないか……ぼくはもっと世界で通用する作家を目指していたのに、母の面倒を見なくちゃいけない……などと、一時は悩みました。だけどぼくはリアリティを、人間関係を、コミュニケーションを追い続けている作家です。だったら、介護というありのままの現実をアートにしたらどうだろう、母親との日常を対象とした作品を創ればいいんじゃないか─そういうところから始めたのが、この「アートママ」シリーズだったんです。

 この作品は、「ベニス・ビエンナーレ」の国際作品に選ばれたのをきっかけに世界中のメディアがとりあげてくれました。その逆輸入で日本でも知られるようになったんです。もうやめるわけにはいかないですよ。ぼくは(母親・男代さんの写真を指差して)この顔で有名になったんだもん(笑)。

ダ=ヴィンチの描いたモナリザなんてどこにもいない。
ぼくにとってのモナリザはいま目の前にいる母です。

世界的にも評価の高いユニークな作品の数々は、どのようにして生まれているのでしょうか?

 介護をしながら創作活動を続けるのは、たしかに大変なことではあるんですが、「アートママ」シリーズは、その介護の日常からヒントを得ることが多いんです。たとえば母と散歩に行くと、ベンチに座っていろんなことを話しますが、あるときこんな話をしました。

大きな靴を履いている男代さんの写真

アートママ(小さな母と大きな靴)
1995年

 母は貧しい家で育ったのですが、小学校のときは朝礼が大嫌いだったらしい。ぼくが「どうして」と聞くと、背が小さくて一番先頭に並んでいたから、すぐ目の前に立っている先生に足元を見られる、と。どうやらつま先の部分がはがれてパカパカと口が開いちゃうほどボロボロの靴を見られるのが、ものすごく恥ずかしかったそうなんです。それでも新品を買ってもらえなかった。だから母は「もう少し背が高かったらなぁ、前から3番目か4番目だったら先生にも足元を見られなかったのになぁ」って言うんです。それを聞いてぼくは「じゃあ、でっかい靴を作ってあげる」と言って創ったのが「ビッグシューズ」だった(笑)。これをはいて少しだけ背が伸びた母に、道路のマンホールの上に立ってもらったら、すごくいい写真が撮れた。このユーモラスな感じが、とても気に入ってます。

 ぼくはいろんなところでよく言いますが、いまはきれいな絵や写真が求められてる時代じゃない。いま目の前に見えるもの、食べているもの、この生活、この現実、すべてがアートなんです。そもそもダ=ヴィンチが描いたモナリザなんて、世界のどこをさがしたっていない。ミロのヴィーナスだってどこにもいません。だからぼくにとってのモナリザは母なんです。どこにもいない空想の人物などではなく、いまここにいる、現実の母。ほら、いい顔してるでしょ?(笑)

男代さんは昔から芸術に対して理解があったのでしょうか?

 母は昔からぼくを応援してくれていました。世の中はお金だけでなく、文化も大事なんだってことを、ちゃんとわかっていたんだと思います。

 一方、親父は芸術に対して理解を示してくれませんでした。その代わりに競輪、競馬とギャンブルが大好き。仕事は鉄工所の経理担当でしたから、美術なんかにはまったく興味がなかったようです。たとえば昔、ぼくが家で絵を描いていると「油絵具がくさいから片付けろ!」と言いわれました。当時はせまい家の中に家族5人が一緒に暮らしていたのですが、それを見た母は「ここで描きなさい」と言って、ぼくのためにアパートを借りてくれたんです。

 そうやって母はあらゆる面でぼくを応援してくれた、ただ一人の理解者なんです。だからこそ、この人のことは最期までぼくが看なくちゃいけないと思っています。

 実際、いま「アートママ」シリーズでバンバン写真を撮ったりしてるけど、母は嫌な顔をしたり、一言だって文句を言ったりしません。このシリーズを始めたばかりの頃は、アルツハイマーの母を題材にすることに対して自分の中にも葛藤があったのですが、いまはぜんぜんそうじゃない。アートをやめたら自分も不幸になるけど、自分が不幸になると母も不幸になる。そう思うからこそ、一緒に作品を創っていけるんです。

 それと、母はずっと家の中で生活していて、社会との接点がまったくないので、取材を受けて掲載されたものは、国内、海外に関係なく、すべて見せています。たまに親戚が家に来くると、イタリアの雑誌なんかを見せながら「わたし、世界で有名」なんて言うんですよ(笑)。おそらく母は、子どもが有名になったということが自分のことのようにうれしいんじゃないかな。ぼくが「死んだ親父も向こうで喜んでくれてるかねぇ?」って聞いたら「うん、喜んでる。絶対、喜んでるよ」って言ってくれたんです。そのときは思わず涙が出ちゃいました。

日本の介護の世界で本当に必要なのは現場のリアリティをもう一度問い直すこと。

日々、介護の現場に身を置いている折元さんにとって、いまの日本の福祉の現実をどう思いますか?

 これからは介護の世界でもリアリティが求められてくるはずです。たとえば、最初は毎日違うヘルパーさんが来ていたんですよ。そこでぼくは主任やケアマネージャーさんを呼んで「人材派遣の感覚じゃ、介護は勤まらない」というお話をしました。これから何年もケアをお願いするでしょうし、母だって裸になってケアを受けるわけだから、慣れた人じゃないと恥ずかしいはず。だから毎回、同じ人に来てもらわないと、とても安心して任せられません。

 そもそも介護っていうのは、掃除をしてもらうとか、買い物に行ってもらうとか、そういう作業は二の次なんです。介護する側とされる側の温かい人間関係、それがまず第一ですよ。来るたびに「おばあちゃん、今日の調子はどうですか?」という一言があることで、はじめて信頼関係が築けるというものでしょう。

今後の活動や展望などについて聞かせください。

折元さんと撮影した写真

 ここ(川崎の自宅)から世界に向けて作品を発信していく、と言ったら聞こえはいいんだけど、本当はアトリエを別に持ちたかった(笑)。ただ、母が「たっちゃん、そばにいてくれないか」って言うので、それもなかなか難しいんです。本当は介護を離れてプレハブの倉庫なんかをアトリエにして、そこで創作活動をしたかった。でも、その前に母が車椅子の生活になっちゃったんです。いま、母は要介護レベル4ですから、自宅とアトリエを往復しながら介護するという生活は、とてもじゃないけど無理です。むしろ今は、このごちゃごちゃした自宅を、いつか二人の美術館にしようと思ってるんです。ぼくと母の「アートママ」ミュージアム。飾り気なく、ありのままの世界があって、そこにぼくが創った作品が置かれていて、壁にはポスターなんかも何気なく貼ってある。そういうぼくらの生活自体をアートにしたい。だから、ここで母と一緒に生活を続けながら作品を発表していくつもりです。

 今度、川崎市の市民ミュージアムで「50GRAND MAMAS」というイベントを開催します(編集部注 3月25日開催済)。50人のおばあちゃんを美術館に招待するパフォーマンスです。そこに50人のおばあちゃんがいるというそのこと自体がアートだと思いませんか?(笑)

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