東京都人権啓発センター

TOKYO人権 第23号(平成16年9月1日発行)

特集

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高齢者の介護をめぐる新たな試み

介護保険の導入以来、高齢者介護の分野でもさまざまな新しい取り組みが行われてきています。グループホームなど、介護施設そのもののあり方を見直す動きもありますが、最近新たな試みとして、高齢者にとって自らがすごしてきたなじみのある環境が、健やかな生活をおくるためには重要であるとする研究が進められています。そこで、東京都にある2つの施設で行われている取り組みについて、今回ご紹介したいと思います。

なじみの生活環境がもたらす「安らぎ」と「活力」

和室の写真

板橋ナーシングホームの和室空間

板橋ナーシングホームにおける取り組み

 板橋区にある特別養護老人ホーム、東京都板橋ナーシングホーム。広い食堂ルームの中にひときわ目を引く場所がある。

 3畳の和室の中には、使い込まれた机と茶だんす。古いラジオ。掛け軸がかかる床の間の隣には神棚が置かれ、鴨居の上には額に入った賞状類や、軍服姿の写真が並ぶ。

 再現されたのは昭和20年代。かつてを知る人なら、誰もが懐かしさを感じることだろう。機能性を重視した同施設では、異質ともいえるこの空間は、高齢者の元気を取り戻すための試みの一環として、平成13年に設けられたものである。

 高齢者が心理的な安らぎを得て、よりよい環境で日々を過ごすための取り組みとして、近年「回想(レミニセンス)」に着目した動きが盛んだ。これは高齢者その人が、かつて過ごしてきた環境を思い起こすこと、すなわち、その人にとって「なじみ」があるモノや場所が、自分らしく暮らすための重要な要素であるという考え方に基づくものである。

 もちろん一口に「回想」といっても、例えばカウンセリングの一環として、対話の中でそれを行うこともあれば、古い写真を見せたり、算盤や大工道具などといった、その人になじみのある古道具を媒介として、回想を促すといったやり方など、さまざまな方法がある。

 また、欧米では早くから、こうした方法を取り入れた、回想法(レミニセンス・セラピー)という痴呆等の症状に対する治療プログラムも開発されている。

 それに対して、一回性の治療ではなく、また一時的な回想にとどまらない、日常的な生活環境を構築するものとして考えられたのが、この板橋ナーシングホームの和室スペースにみられるような「なじみの生活環境」の空間造作なのである。

 導入のきっかけとなったのは、高齢者痴呆介護研究・研修東京センター(杉並区)などが進めていた、痴呆の人の体験世界を解明するための共同研究事業。記憶の活性化が高齢者にもたらす影響等についての研究が進められる中で、その効果を測定するための場所を提供したかたちになっている。

 施設を利用する高齢者にとって、その人らしく日々を過ごすために必要なものを模索した結果、提案された一つの試みといえよう。

 導入後に施設利用者たちが示した反応はさまざまだったという。

 完成直後からごろ寝を始めた人。遠巻きに見ている人。スタッフに促されながらも、独楽回しなどの昔の遊びに手を出す人・・・。また、ちょっとしたアイデアから、ここに糠床が持ち込まれると、漬物を漬け、それを上手に切り分ける入所者もでてきた。

 同施設相談係長の谷口絹子さんは、「この場所はいまでも利用者の方たちのくつろぎの空間になっています。自室のベッドでは寝つけない人も、この和室に蒲団を敷くと、なぜか安心してゆっくりと寝られるみたいです」と話す。

「回想」の場としての博物館

ご老人が2人でお茶をいただいている写真

仲良くお茶をいただきましょう

 東京都江戸東京博物館(墨田区)の常設展示室の中の「体験コーナー」に、昭和前期の郊外型住宅をモデルとした「“あのころ”の東京の暮らし」展示がオープンしたのは今年4月。

 復元された住居空間のなかに置かれた、さまざまな日用品を、来場者は自由に手に取ることができる。多くの見学者が訪れる同館の中でも、このコーナーは、従来の「見るだけ」の展示から、展示を体験する、さらには、五感で展示を体感できるものとして設置されたものだ。

 コーナーの入口には、次のような説明がなされている。

 「くらしの様子は昭和20年代後半〜30年代の生活を想定して再現しました」「当時を知っている方は、どうかその思い出をお知らせください。若い方や子どもさんたちは、昔のくらしといまのくらしをくらべて見てください」。

 さらに、「この体験コーナーは、高齢者の方が、かつてを思い出すと元気になられるというレミニセンス(回想)の効果、高齢者の“なじみ”の生活環境づくりのあり方などを博物館として調べる研究開発の場としても活用します」というように、設置の目的も明示されている。

博物館を見学している写真

江戸東京博物館・体験コーナー

 同館学芸員の田中裕二さんは、「現在、博物館に求められている多様な役割の中で、高齢者へのサービスの提供は重要なものの一つ。地域福祉の見地からも、また生涯学習や世代間交流を支援するという意味からも、一つのモデルとなるような場にしていきたい」と意気込みを語る。

 記憶を引き出すためのモノが必要な「回想」の場として、博物館は格好の施設となるわけだ。

  江戸東京博物館で行われているこのプロジェクトは、展示を専門とする(株)トータルメディア開発研究所と(株)文化総合研究所、また高齢者の生活機能の低下予防に取り組む東京都老人総合研究所など、多様な研究組織による共同研究体制で進められている。

 コーナーの中には、研究スタッフ(エデュケーター)が常駐して来場者とコミュニケーションを持ち、さまざまな反応や、「回想」された情報を蓄積して行く。また、ここには多くの子どもたちも訪れるため、世代間の交流を促す効果も期待できるという。今後は、地元のお年寄りを招待して、このコーナーを体験してもらう事業を計画中だそうである。

博物館の展示台所の写真

台所スペースにも、道具類がならぶ

 2つの取り組みの背景には、高齢者、とりわけ75歳以上の後期高齢者が置かれている現状(例えば外出の制限や交流機会の減少など)と、それによる生活機能の低下という問題がある。

 とくに高齢者を、介護されるべき存在としてのみ捉え、その人らしさを考慮せずに、一律的な環境に置いたならば、こうした傾向は一層進むことになる。

 それに対して、その人自身の生活体験に根ざした「なじみ」ある環境を検証し、そこへ日常の暮らしを近づけるための努力を行うことは、直接的に生活機能低下の予防効果をもたらすだけでなく、介護そのもののあり方を考える、重要な契機となり得る。

 さらに、こうした取り組みにおいて得られるさまざまな情報を、介護の現場をはじめとする、日常的な暮らしの中へとフィードバックさせて行けば、高齢者を取り巻く状況そのものにも、改善が望めるだろう。

 新たな試みによって明らかになって行く、「なじみ」の環境の重要性に、私たちは今後ともより多くの注意を払っていくべきである。

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