東京都人権啓発センター

TOKYO人権 第21号(平成16年4月1日発行)

特集

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Jリーグからアテネパラリンピックへメダルを目指す「車椅子のJリーガー」

将来を嘱望されていた若きJリーガーを襲った自動車事故。それは結婚を2カ月後に控えた、あまりにも突然の出来事でした。サッカーとの決別。陽子夫人と結婚。慣れない車椅子生活。そして車椅子バスケットボールと出会い、やがて夢の舞台・パラリンピックへ。
過酷な運命に翻弄されながらも、決して希望を捨てることなく障害と闘い続ける京谷和幸さんに、事故のこと、家族のこと、そして車椅子バスケットボールへの想いなど、じっくりとお話をうかがいました。

PROFILE

顔写真:京谷さん

京谷和幸さん

1971年、北海道生まれ。小学校2年からサッカーを始め、強豪・室蘭大谷高校の中心選手として活躍。高校卒業後、当時日本リーグの名門だった古河電工に入社。Jリーグの発足とともに東日本JR古河サッカークラブ(現ジェフユナイテッド市原)に在籍。
ところが、Jリーグが開幕した93年シーズン終了後、不慮の事故に遭遇、脊髄損傷により下半身の自由を失う。94年から車椅子バスケットボールを始める。00年には日本代表としてシドニーパラリンピックに出場。
現在、車椅子バスケットボールクラブ「千葉ホークス」の中心選手であるとともに、04年9月に開催されるアテネパラリンピックを目指して練習に励む。著書に、陽子夫人との共著『車椅子のJリーガー』(主婦の友社)がある。また、車椅子バスケットボールに賭ける高校生を描いた映画『ウィニング・パス』(中田新一監督・03年公開)では、主人公・健太に目標とされる選手として出演した。

今後は車椅子生活になると主治医から宣告された時はショックで涙も出なかった。

Jリーグが開幕してから半年後に事故に遭われたそうですが、当時の状況について教えてください。

 すでに婚約中だったこともあって、とにかく早く試合に出られるようにアピールしなくては、と思いながら練習を続けていたところでした。それに、事故当日は結婚式の衣装合わせの日だったんです。そんなふうに、ちょうどいろいろなことが重なってバタバタとしている時期に、事故が起きてしまったというわけです。

 当然、結婚式は延期になったわけですが、僕自身はもう、結婚は白紙に戻るだろうなと思っていました。ところが、陽子(京谷夫人)から突然「すぐに結婚したい」と言われたんです。その時は「なんでそんなに急ぐ必要があるんだろう?」と、不審に思いました。こっちはもう、全身が痛くて仕方がなかったので、それどころではありません。それでも、彼女の表情を見ると、いつもとは明らかに違っていた。だから、彼女がそれほど望むのであればということで、入院中に婚姻届を提出することにしました。

 婚姻届を提出したのは事故後11日目でしたから、その時点ではまだ自分の下半身が二度と動かなくなるかもしれないということは、まったく知らされていません。しかも、彼女から結婚の申し出があったのは、事故後1週間目くらい。だから本当に「え?」って感じでした。普通だったら「退院してチームに復帰しからでも遅くはない」と思いますよね、やっぱり。

主治医から「今後は車椅子の生活になる」と聞かされた時、どんな心境でしたか?

 じつは、突然告げられたという印象ではなく、事前にいろいろな予兆があったので薄々気付いていました。

 たとえば、足のしびれです。このしびれは、長時間正座をしていた時の何十倍も強い感覚です。それでも、しびれさえ取れたらなんとかなるだろうと思っていました。ところが、いつまで経ってもしびれが取れない。そこで、試しに自分の足を殴ってみました。そしたら、まったく痛くない。「あれ、おかしいな?」と気づいたのは、その時です。「おかしいおかしい」と思いながら何発も何発も殴り続けて……気が付いたら足にアザができていました。そこまでしても痛みを感じなかったんです。

 その後、ふとしたきっかけで陽子の日記を読みました。いつもは持ち歩いていたらしいのですが、その日はたまたま病室に忘れていったみたいです。そこには「脊髄神経がダメになって――」「車椅子の生活が――」といった内容がたくさん書いてありました。それを見て、これまでの謎がすべて解けました。たとえば、先生にネコじゃらしで足を撫でられたり、爪楊枝で足をチョンチョンと刺激されたり、そういう奇妙な行動を不思議に思っていたので。でも、日記を読んで、すべてイコールで結ばれました。もちろん、彼女が突然「結婚しよう」といった理由も。「嘘だろ?」と思いました。

 それから数日後です。主治医の先生をはじめ、看護師さんまでずらりと僕の病室にやって来たのは。さすがにその時は、すべてを悟りました。先生からは「このような症状で完治した例は、いままでありません」「これからは車椅子の生活になります」と、はっきり宣告されました。

 それから、彼女に「おれ、もうサッカーできなくなっちゃった」と伝えると、初めて彼女は涙を見せました。でも、その姿を見て、なんだか無性に腹が立ってきて……泣ける彼女がうらやましかったんです。こっちはショックで涙も出やしない。だから「いいよな、お前は泣けて」と、初めて彼女に暴言を吐いちゃいました(笑)。

彼女の決意に負けちゃいかん。ある意味、僕のライバルは永遠に嫁さんなんです(笑)。

下半身の自由を失ったと知った時から現在まで、どのようにして障害と向き合ってこられたのですか?

パスをする京谷さん

 この障害を受け入れないと、僕だけじゃなく、陽子まで不幸にしてしまいます。僕にとって、サッカーができないショックよりも、二人が不幸になってしまうことのほうが耐えられなかった。だから、とにかく「いまできることをやろう」と決めました。

 たとえば「車椅子生活には、上半身の筋力が必要」と言われていましたから、宣告を受けた翌日には筋トレを開始しました。病室に鉄アレイを持ち込んで、ひたすら筋トレです。

 一週間ぶっ通しで続けたら手首が腱鞘炎になって、ドクターストップがかかっちゃいましたけれども(笑)

 あと、彼女と話し合って「二人で人並みの生活を送れるようになろう」という目標を立てました。車椅子生活、結婚生活、そして子育て……僕はあらゆる部分でハンデを背負っているわけです。だから、それはひょっとしたらプロのサッカー選手になるよりも高い目標だったのかもしれません。でも、いまこうしてなんとか生活できているのは、二人で一緒に乗り越えてきたからです。僕一人では、決してここまで来ることはできませんでした。

 だから僕自身、いまでも彼女が下した「結婚」という決断に負けてはいなない、と思っています。僕が事故で入院した時点で、彼女はすでに「これからの人生、京谷と一緒にハンディキャップを背負って行こう」と決意していたわけですから。その気持ちに応えるためにも、僕はまだまだ頑張る必要があるんですよ。ある意味、僕のライバルは永遠に嫁さんなんです(笑)

子どもが誇りを持てるような“自慢の父親像”を目指して車椅子バスケにのめり込んだ。

車椅子バスケットボールを始めたきっかけを教えてください。

パスを受ける京谷さん

  市役所で障害者手帳を交付してもらった時に受付をしてくれたのが、いま僕が所属している「千葉ホークス」の選手として活躍していた小瀧さんでした。その小瀧さんから、後日「バスケットをやるとリハビリになるよ」と誘われたことがきっかけです。

 最初、車椅子バスケットボールの練習を見学した時は、唖然としました。「こんなこと、僕にはとてもできない」と。当時、千葉ホークスは五年連続で日本一になっていたチームでしたから、スピード、パワー、テクニック、どれをとっても一流です。障害者が、車椅子に足をくくりつけ、車椅子ごと相手に体当たりする。床に倒れても自力で立ち上がり、平然とした顔でプレーを続けている。そんな光景を目にして、本当に度肝を抜かれました。

 そんなこともあり、最初は気後れしていました。ところが、人数合わせで参加した国体で、メンバーと四日間寝食をともにしたことが僕を大きく変えました。彼らはとにかく元気でした。お酒もよく飲むし、大声で話をする。彼らを見ていると「車椅子だけど、本当になんでもできるんだな」という気になりました。ただ、足が車椅子に変っただけ――そんな気持ちに変っていきました。積極的に練習へ参加するようになったのは、それからです。

 ただ、ここまで車椅子バスケットボールに打ち込むようになったのは、やはり子どもが生まれたことが一番の動機でしょうね。父親が障害を持っているということで、子どもがいじめられるようなことだけは避けたいと思ったわけです。だからとにかく、この子が誇りを持つことができるような父親になりたかった。

 また、車椅子バスケットボールを始めた頃、陽子に「やるからには目標を高く持ってね」と言われました。それが頭に残っていたので、故郷の室蘭に帰って結婚のお披露目会を開いていただいた時に「車椅子オリンピックでパラリンピックを目指す」と、つい口が滑ってしまったんです。その時は、みんな目を丸くしていました(笑)。

京谷さんは毎年、下肢(足)に障害を持つ子どもを対象にスポーツキャンプの講師をされていますが、その活動内容、そして障害者スポーツに対しての今後の目標を聞かせてください。

車椅子でのバスケットボール

  キャンプのテーマは、バスケットボールをはじめ、陸上やテニスなどのスポーツを通じて「自らの可能性を信じて行動することの大切さ」を学んでもらうことです。もちろん、僕は車椅子バスケットボールを教えています。

 障害があるこどもも多くの可能性を秘めています。実際、スポーツをやってみたいという子どもはたくさんいるのですが、なかなかそういう施設や指導者がいないというのが現状です。だから、僕が全国各地を回って指導をしているというわけです。最終的には、それぞれの地域やそれぞれの自治体の皆さんに、こうした活動を展開していただければいいな、と思っています。それが、いわゆる社会福祉協議会が言うところの「地域福祉戦略」のひとつでもあり、障害者の自立につながりますから。いまは少しずつ種をまいている状態ですが、これがいつか実を結べば、素晴らしいですよね。たとえば他の国のように子どもの頃から障害者スポーツの育成システムをしっかり組織できれば、この世界もガラリと変わるでしょう。やはり底辺の選手層を厚くすることが、国際レベルの競技力をつけることにもつながるわけですから。その時、僕もなにかしらの形で協力できればいいな、と考えています。まあ、障害者スポーツ界のフランシスコ=ザビエルになろうかな、と(笑)

 いまはとにかく9月に行われるアテネパラリンピックに出場するためにアジア・オセアニア地区予選を勝ち抜くこと、そして本大会でメダルを獲ることが最大の目標です。僕たちジャパンのメンバーも精一杯頑張りますので、皆さんもぜひ応援してください。

車椅子バスケットボールにおける選手の持ち点について

 車椅子バスケットボールの選手には、障害レベルの重い者から順に1.0〜4.5の持ち点が定められ、試合中にコート上の5人の持ち点の合計が14.0を超えないように決められています。そのため、障害の重い選手も軽い選手も、等しく試合に出場するチャンスが与えられています。ちなみに、京谷さんの持ち点は、最も重い障害とされている1.0点です。日本車椅子バスケット連盟によれば、持ち点の障害レベルは以下のとおりです。

1.0
腹筋・背筋の機能が無く座位バランスがとれないため、背もたれから離れたプレーはできません。体幹の保持やバラ ンスを崩して元の位置に戻す時、上肢(手)を使います。脊髄損傷では第7胸髄損傷以上の選手で、基本的に体幹を 回旋する事ができません。
2.0
腹筋・背筋の機能がある程度残存しているため、前傾姿勢がとれます。体幹を回旋する事ができるので、ボールを受けたり、パスしたりする方向に体幹の上部を向けることができます。脊髄損傷では第10胸髄から第1腰髄損傷までの選手ですが、残存能力には個人差があります。
3.0
下肢にわずかな筋力の残存があり、足を閉じることができます。骨盤固定が可能となるため、深い前傾から手を使わずにすばやく上体を起こすことができます。第2腰髄から第4腰髄損傷の選手および両大腿切断者で断端長が2分の1以下の選手です。
4.0
股関節の外転を使って、少なくとも片側への体幹の側屈運動ができます。第5腰髄以下の選手および両大腿切断で断端長が3分の2以上の選手、または片大腿切断で断端長が3分の2以下の選手です。
4.5
片大腿切断で断端長が3分の2以上の選手や、ごく軽度の下肢障害を持つ選手です。どんな状況であっても両側への体幹の側屈運動が可能です。

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