東京都人権啓発センター

TOKYO人権 第19号(平成15年9月1日発行)

特集

ここから本文です

日本の美意識を遺すために――私は「現代の浮世絵師」になりたい

今回のゲストは、『アエラ』(朝日新聞社)の「現代の肖像」シリーズや『婦人画報』(アシェット婦人画報社)、『東京人』(都市出版)などの雑誌で著名人・文化人の撮影を手がける一方、神楽坂・新橋・赤坂・浅草などの花柳界を20年近く撮り続けてきた、写真家のヤマモトヨウコさんです。「日本の美意識」にすっかり魅了されたヤマモトさんに、希少ながらも確実に生き続ける「いき」の世界のこと、そして仕事で出会った作家・住井すゑさんの印象について、じっくりと語っていただきました。

PROFILE

顔写真

ヤマモトヨウコさん

青山学院大学文学部史学科考古学専攻卒業。国際線スチュワーデスをしながら現代写真研究所に通い、写真を学ぶ。故・田中雅夫氏、細江英公氏、英伸三氏、桑原史成氏、森田拾史郎氏に師事。1991年、フリーランスの写真家としてキャリアをスタート。東京・神楽坂に住んで花柳界を撮り続け、『アサヒグラフ』『太陽』『婦人画報』を中心に活動を続ける。98年9月から99年8月まで文化庁芸術家在外派遣研修員としてミラノに留学。国内外で個展「かぐらざか女人日記」を開き、その作品はフランス国立図書館、ハーバード大学フォッグ・アート美術館にも所蔵されている。来春は、米国ピーボディ・エセックス・ミュージアムとアジアン・アート・ミュージアム・オブサンフランシスコで開かれる「芸者展」の中で「現代の芸者」写真展を開催予定。(財)日本写真家協会会員。主な作品「かぐらざか女人日記」「芸者花伝」「セルフポートレイトTransparentin the sun」など。

清水寺の屋根のカーブが日本人の美意識に気づかせてくれました。

国際線スチュワーデスから写真家へ転身されたいきさつについて教えてください。

 写真を撮り始めたきっかけは兄の影響もありましたが、写真への想いがこれほど強くなったのは、世界各国を自分の足で見てまわったこと、そのおかげで日本の美意識に気づかされたことが大きかったように思います。

 もともと私は、世界中をまわって見てみたいというとても単純な動機で国際線のスチュワーデスの仕事を志望しました。たとえば、チュニジアの砂漠では、砂が舞うなかで民族衣装をまとった老婆がぽつんと立っていた――そんな出来すぎのショットが立ち現れると、目が釘付けになってしまうんですよ。もう目シャッター状態ですね(笑)。風景を脳裏に刻み付けておくわけです。そんな経験を重ねていくうちに、海外で本格的に写真を撮ってみたくなり、仕事を続けながら故・田中雅夫先生がいらっしゃった「現代写真研究所」の夜間コースへ入学したんです。

 でも、海外に行くと「日本人ってなんだろう?」と考えさせられることが多くなりますよね。外国の方に日本のことを聞かれても、自分は日本のことを何も知らないんじゃないかと思ったりして。そんなことを考えていたある日、バチカン市国でサン・ピエトロ寺院の建築や装飾に囲まれていたら、なんだかいたたまれない気分になってしまったんです。うまく言えないのですが、金づくめのぎっしりと密度の濃い壮麗な空間に、思わずその場から逃げ出したくなってしまって……。

 その直後、フライトの間隔が空いたので京都へ行った時、夕景をバックに、シルエットで浮かび上がる清水寺の屋根のカーブを見て「なぜ、こんなに心が落ち着くんだろう?心がふわっとそぐうんだろう」と、疑問に思いました。そして「どんな国でも、人間は結局同じだと思ってきたけれども、美意識というものは、非常に異なるんじゃないか」と考えるようになりました。それ以来、日本の美意識に興味を持ち、写真で表現してみたいという想いが、どんどん膨らんでいったんです。

 その後、日本航空を退社して、テーブルコーディネーターのお仕事を三年ほどやりました。そして仕事のかたわら写真を学び続け、91年にフリーランスのカメラマンとして『アサヒグラフ』で歌舞伎などの取材のお仕事を始めさせていただいたというわけです。

神楽坂の街に惚れ込み、花柳界を撮り始めてから20年近くになるそうですが、これほどのめり込むようになったきっかけはなんだったのですか?

 じつは、花柳界をテーマに撮り始めてみたものの、この世界の奥の深さを知れば知るほど、自分の作品になかなか満足できなくなってしまうんですね。だから、「かぐらざか女人日記」も、完成までには20年もかかってしまったんです(笑)。

 初めて神楽坂を歩いたのは、写真学校の修了展の作品を撮るために訪れた時です。まだスチュワーデスの仕事を続けていたのですが、当時市ヶ谷に住んでいた私が、無理なく行ける場所ということで、写真学校の方が神楽坂を教えてくれたんです。当時は日本家屋がたくさん残っていて、料亭が並ぶ路地裏や石畳、黒塀がモダンだったり、つくばいに揺れる光や陰を見て「なんて美しいんだろう」と思ったりして、撮り始めたんです。

 三年ほどたってから、徐々に花柳界にも入って行けるようになったのですが、そこで目にした芸者さんたちの踊り、身だしなみ、礼儀作法……とにかく、どれをとってもきりっと美しい。そんな姿を、間近で見られるようになってから、ここにはたしかに日本の文化が息づいている、と感じるようになりました。と同時に「日本女性の美意識を遺したい」という想いが強くなっていったんです。

 さらに私自身、好きで始めたことは、とことん突き詰めないと気がすまない性格なんです。だから、いっそのこと神楽坂に住んじゃおう、と(笑)。住んでみないとわからない雰囲気ってありますし、ご近所さんだからこそ撮れる写真というのも、やっぱりあると思いましたから。

現在でも海外に根強く残る花柳界の女性に対する誤解を少しでもなくしていきたい。

日本特有の「いきの文化」を外国人の方に説明するのは、とても難しいことだとうかがいました。とくに海外では、いまだに芸者さんに対する偏見があるそうですね?

 偏見と言うよりも、完全な誤解と言ったほうが近いでしょうね。海外でも芸者さんに対する関心はすごく高いのですが、やっぱりほとんどの外国人の方は、芸者さんのことをすごく誤解しています。そういう方々はとんでもなく失礼な質問をしてくることもありますが、それでも写真を見ていただくと話が早いんですよ。たとえば三味線を弾く手の写真を見れば、これは若い人じゃないってことがすぐにわかりますよね。そこで「もし芸者さんが『色』を売る職業だったら、いま94歳の方が現役で活躍しているのはなぜ?この仕事は死ぬまでできるんですよ」って言うと、ほとんどの方が納得してくれます。「色」じゃなくて「芸」なんです。

 そういう私も、明治生まれの芸者さんを撮る機会をいただいてから、初めて「いき」というものを理解できるようになった気がします。彼女たちは、ものすごく人間としての器が大きい。凛としていて、どこかスタイリッシュなんです。それに芸者気質というか、心意気があります。半端ではなく、ひとつのことをやり抜いたことに対する気概を持っていらっしゃる。そういう方々と接することによって、初めて「いき」という言葉を口にすることができました。じつはそれまで、九鬼周造さんの『「いき」の構造』(岩波文庫)をどれほど読み込んでも理解できなかったし、なんとなく口にするのが恥ずかしかったのですが……。

 いずれにしても、花柳界というのは江戸期からの風俗や四季の風習などの文化や様式美も遺され、心意気や人情の機微があればこその世界。人情や礼儀も日本の大切な文化だと思うんです。今の時代に形は遺せても、精神的なものは、なかなか遺すのが難しいですから。だからこそ、厳しい修行を積み、接客のプロフェッショナルとなった彼女たちが体現している美意識や文化を、日本だけでなく世界中に正しく伝えていきたいと思っています。

写真:三味線を弾く手

「かぐらざか女人日記」より
おわかさんの手 91才 #1

写真:芸者の顔

「かぐらざか女人日記」より
顔 #1

写真:支度風景

「いき」
新橋・まり千代姐さん 86才

私の目標は、日本の美意識を後世に遺していけるような現代の浮世絵師になること。

ヤマモトさんが今後の活動で撮っていきたいものや、目標としていることなどについて聞かせてください。

 作品をご覧になっていただけると、おわかりになると思うのですが、私の写真は、すべて芸者さんの了解をもらってから撮らせていただいたものばかりです。芸者さんに断られた時に撮影したことは、一度もありませんし、今後もそのような写真を撮るつもりはありません。長い間の人間関係の中で自然な瞬間を撮らせていただいたからこそ、作り物ではなく、本当の芸者さんの姿だと言える作品を撮ることができたのです。新橋については10年近く、また、赤坂、浅草も撮らせていただききましたが、そのうえで、限られた世界ゆえに大切に守られてきた日本の文化を、これからも多くの人々に伝えていきたいと思っています。

 たしかに現在、神楽坂にも高層ビルができ、街は姿を変えつつあります。芸者さんの数も少なくなってしまいました。それでもここには、自立した女性たちが一生懸命生き続け、伝え、守ってきた日本のよき文化が遺されています。それも現代の日本なのです。そのことを世界中の方々に伝えていけるよう、私はこれからもシャッターを切り続けるつもりです。

 そして今後は日本の様式美を一枚の絵で表すような写真にも挑戦していきたいと考えています。それはつまり、現代の浮世絵師になりたいということです―って言ったら、ちょっとカッコつけすぎでしょうか(笑)?

 作家・住井すゑ先生はまるで少女のような一面も持ち合わせていたんです。

ヤマモトさんは芸者の世界を撮り続ける一方で、著名人や文化人の方々も撮影されていますが、小説「橋のない川」の著者・住井すゑさんもお撮りになった経験があるそうですね?

 住井先生とは、雑誌の取材でお会いしたんです。本当は、お住まいの近くの牛久沼のほとりで撮らせていただきたかったのですが、先生は体調を崩されて、入院していた病院から退院されたばかりだったのでそれはかなわず、代わりにご自宅で撮影することになりました。

 お会いした直後は、先生の毅然とした態度に「ちょっと怖い方なのかな?」
という印象を受けてしまいましたが、会話をかわしながら撮影を続けるうちに、まるで少女のように、好奇心旺盛な表情も見せてくれるようになりました。その時、私は「毅然とした社会派作家としての顔だけでなく、生き生きとした少女のような笑顔も撮ってみたい」と思ったのです。それくらい、魅力的な表情でした。

 また、二階の部屋では、ライトをつけてお顔のアップを撮らせていただいたのですが、撮影を進めているうちに先生の澄んだ瞳がまるで宇宙のように見えてきたんです。そこで、5センチくらいの距離まで寄った位置から先生の目のアップを撮りました。このように、私がいろいろお願いするたびに、先生が面白がって応じてくださったのです。撮影の最中も先生は「それは何?あれは?」と、私にいろいろとお尋ねになったことを覚えています。本当に好奇心いっぱいの方だったんでしょうね。

 あと、これはお話をうかがっているうちにわかったことですが、先生は子どもの頃から勉強が好きで、成績も非常に優秀だったそうなんです。ところが、農家の三女にもかかわらず、男である兄より成績が良かったため、父親にとても嫌がられたという話まで教えてくださいました。おそらく先生は、この経験から「どうして世の中には、生まれながらにして差別が存在するんだろう?」と疑問に思ったに違いありません。そして先生は、子どもの頃に感じた純粋な疑問を持ち続けたことによって、後年『橋のない川』という不朽の名作を完成させることができたのではないでしょうか。世間の常識や因習といったものにとらわれず、ご自分の信じた道を貫いていらっしゃる先生の姿に、私は人間の尊さを強く感じました。

 じつは私自身、日本の素晴らしい文化を表現したいという想いで一生懸命に撮影の仕事をしてきたのですが、次第に世の中には、さまざまな偏見があるということを知りました。私も女性の写真家であるということで不当な扱いを受けた経験がないわけではありませんし、留学生活の中で、日本への無理解を感じ、寂しい思いをしたこともあります。そうした経験から、偏見というものは、無知や無理解から生まれるものだと思っています。幸いにも、私は写真を通じて、住井先生をはじめ、ひとつの道を貫かれた各界の方々にお会いすることができましたし、花柳界の方々には、この世界の内側にまで入って撮らせてもらう貴重な経験をさせていただきました。

 つまり、私は写真を撮ることによって、多くの大切なことを学ばせてもらったわけです。だからこそ、この日本の文化や、人間の素晴らしさを、一人でも多くの方々に伝えていきたいと思うのです。そのことが、私の感じてきたような、偏見や先入観、誤解といったものも、氷解させてくれることにつながっていくと願っています。

注:現在、当プラザ展示室では住井すゑさんの特別展を開催しています。展示室にはヤマモトさんからご提供いただいた写真も展示してあります。特集2では展示室の紹介をしています。

このページの先頭に戻る