東京都人権啓発センター

TOKYO人権 第11号(平成13年9月18日発行)

特集

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ハンセン病・終わりの始まり ~私の歩んできた道~ -大谷藤郎さん-

今年5月、熊本地方裁判所で「らい予防法」による強制隔離規定の違憲性などが認められ、原告であるハンセン病の元患者達が全面勝訴しました。その後、国は控訴を断念し、7月には原告との間で和解が成立しました。今回は60年近くもの間、ハンセン病患者の人権回復に取り組み、らい予防法の廃止や「高松宮記念ハンセン病資料館」の設立、熊本地裁証言に力を尽くした国際医療福祉大学学長の大谷藤郎さんにお話を伺いました。

PROFILE

写真:大谷藤郎さん

大谷藤郎(おおたにふじお)さん

大正13年滋賀県に生まれる。昭和27年京都大学医学部卒業、昭和34年 厚生省に入り、厚生大臣官房審議官、公衆衛生局長、医務局長を歴任。その間、ハンセン病や精神障害者などの人権回復に尽力。退官後も精神障害者の地域社会復帰運動など、疾病障害差別の人権運動にかかわる。
平成5年社会医学・公衆衛生分野におけるノーベル賞といわれるレオン・ベルナール賞を受賞。
「現代のスティグマ」「らい予防法廃止の歴史」など、著書多数。現在、大学学長のほか、ハンセン病に関する知識の普及のために設立された財団法人藤楓協会理事長、高松宮記念ハンセン病資料館館長を務める。

人権という言葉は意識してなかった

ハンセン病の患者さんの人権回復に力を注ぐようになったきっかけは何だったのでしょう?

 私が京都大学の医学専門部に入学したときですから、戦前のことです。私の母の郷里が愛知県で、近所のお寺の息子さんが京都大学の先生だということで挨拶に伺ったのです。その先生というのが、ハンセン病の患者さんの数少ない隔離政策反対論者であった小笠原登先生でした。当時はまさに日本中が「ハンセン病というのは治らない怖い伝染病だ」と思いこんでいましたが、先生はたくさんの患者を診て、そうでないと主張していました。

 先生は私に「医学の勉強は本を読むのではなく、患者さんに接触することが大事だ」とおっしゃったのです。でも、顔が腫れたりして、ひどい症状の患者さんがいましたから、私は「先生、そんな怖い病気、うつりませんか」と言いました。すると「国はあんなことを言っているけれど、私はそんなことはないと思っている」と。それから先生を手伝い始めたのですが、初めはやはり恐る恐るでした。最初の頃は夜、家に帰ると「明日は絶対に行くまい」と思うんですね。でも、翌日太陽が昇ると、なんとなく行ってしまうというくり返しでした。

 ところが、戦況がわるくなるにつれ、若い男は皆、軍隊にとられて次々に命を落としていきました。そんな状況を見ていると自分も「先は短い」と思うようになって、「死ぬまでに何か意味のあることをしたい」という気持ちになりました。それで「患者さんのお役に立てるなら」と、本格的に先生のお手伝いをするようになったのです。それがきっかけですから、もう60年近く関わっていることになります。

 ただ、先生も私も人権なんていう言葉は意識しておりませんでした。人間扱いされていない患者さんのお役に立てればとただ一生懸命やっていただけでした。

人権の視点で議論されなかった「らい予防法」

ハンセン病の患者さんに対して、どんな政策が行われてきたのでしょう。

 ハンセン病は日本では奈良・平安時代から知られていた病気ではあったのですが、当時は明治以降ほどのひどい扱いではありませんでした。明治時代に西洋医学の影響から、伝染する病気だと考えられるようになり、ひどく怖がられるようになったのです。明治40年(1907年)、うつらないように一カ所に入れておこうという発想から、世間の目をはばかって浮浪徘徊する患者さんに対して、隔離収容政策が始まりました。

 昭和6年(1931年)にはどんな患者さんであっても強制的に収容して、外へ出させない絶対隔離をめざす「らい予防法」(旧法)に強化されました。「患者を一人でもなくすことが大和民族の血の純化をはかる」と考えられて、県に一人も患者がいないことが国家、社会のためであるという「無らい県運動」が行われました。実際に患者を隔離した国は日本以外にも何カ国か見られましたが、ここまで厳しかった国は他に例を見ません。

 ハンセン病になると、手足が溶けてしまうと思い込まれていましたが、それは大きな間違いだったのです。確かに患者さんの中には顔が腫れて、体中が真っ赤になってしまうようなひどい症状の人もいました。でも、らい菌のせいで化膿したのではないのです。末梢神経が麻痺してしまうため、傷ができても放っておくから、どんどん化膿してしまう。きれいな包帯なんてない時代ですから、ひどくなってしまうのです。

 症状がひどかったのは、すべての患者ではなく、目立たない人も多かったのです。それなのにハンセン病であれば、とにかくつかまえて施設に送り込んだわけです。

 当時はハンセン病であることが分かると、警察に報告されて施設に送られました。密告もありました。でも、小笠原先生はそういう政策に反対して、患者さんに偽の診断書を書いたりしていました。当時、警察や軍隊に反対するのはすごく勇気のいることだったのですが、決して動じることはありませんでした。

 先生はまわりから国賊扱いされ、学説もまちがっていると批判されていましたが、そんな先生のまわりに偉いお坊さんや芸術家がたくさん集まってくるのです。人をひきつける独特のムードのある人でしたね。

「らい予防法」についての考えを聞かせてください。

 小笠原先生や私は「ハンセン病はらい菌による病気ではあるが、よほどのことがなければうつらない」と言い続けてきました。だから、患者さんには普通の人と同じように接していました。

 現在の医学であれば「誰もが感染するのではなく、体質によって異なる。しかも、感染して発症する確率は非常に低い」と断言できるのですが、当時の状況では、「らい菌が原因の病気なら、予防のために隔離した『らい予防法』はまちがいではない」と思い込んでいる人に対して、自信を持って徹底反論できる状態ではなかったのです。

 らい予防法を医学的見地からのみ考えていること自体、まちがっているのです。伝染するからといって、患者さんを一生隔離し、断種手術で生まれてくるであろう子どもの未来まで奪うようなことが許されるのか。人権という面から見たら、戦前は選挙権もないし、電話もかけられなくて、人間扱いされていなかったのです。そこまでできる根拠があるかという問題です。それなのに日本はらい菌で起こる病気かどうかの議論ばかりをやってきた。世界から全くはずれた議論です。本当はその人の自由を奪い、一生社会で活動できないように隔離拘束するだけの医学的根拠があるのかどうかを人権という立場から議論すべきなのです。

 しかも、昭和21年(1946年)には新憲法によって、国民の基本的人権が叫ばれ、日本は民主主義の国になりました。さらに昭和24年(1949年)にはハンセン病の特効薬「プロミン」が使われるようになって、ハンセン病は容易に治る病気になったのです。そして、「プロミン」が使われるころには、世界でもハンセン病患者を収容することは間違いである、外来治療で治せると言われるようになっていました。

 そういう新しい時代が来て、患者さん達が「外出をさせてほしい」「生活をよくしてほしい」と訴えたのに、日本では「日本からハンセン病を根絶するために、さらに政策を強化しよう」ということになったのです。そして、新しい「らい予防法」(新法)が制定されました。つまり、国や専門家たちは戦前だけでなく、戦後も新しく罪を犯していたのです。

 今年5月、「らい予防法」による隔離政策の裁判の判決で「国は昭和40年(1965年)には隔離政策をやめるべきであったのにやめなかった不作為過失である」ときびしく断罪されました。民事裁判ですから期限がはっきり限定されたのですが、理論として人権侵害の間違いは、戦前までさかのぼるべきだと私は思っています。

国民みんなが反省するべき

1996年のらい予防法廃止と、今年5月、元患者側が全面勝訴した「らい予防法」による隔離政策の裁判について聞かせてください。

 私は昭和58年(1983年)に厚生省を辞めました。厚生省在任中は患者さんの日常生活を改善するために一生懸命努力してまいりました。でも、いくら生活が改善されても、「らい予防法」がある限り、患者さん達は卑しめられていると気づいたのです。そのきっかけとなったのは精神障害者の人権問題に直面した時でした。昭和59年(1984年)、職員に暴行を受けた患者が死亡した「宇都宮精神病院事件」の後、ジュネーブの人権委員会が「日本政府は患者の意志を無視した強制入院ばかりやっている」と厳しく非難したことでした。これを機に精神衛生法の改正が議論されました。当時、私は精神衛生法において措置入院は強制入院であるが、同意入院は家族が同意するものであるから、それ程非難される強制入院ではないという認識を持っていましたが、ジュネーブではこれの濫用は明らかな人権侵害であるということでした。それならば日本に「らい予防法」が存在することの方が問題だ。絶対に廃止しなければいけないと私は思ったのです。

 ところが、平成元年(1989年)に私はガンになり、入院しました。治らないかもしれないと思ったとき、やり残したことがあると思ったのです。一つは「らい予防法」の廃止ですが、もう一つがまちがった歴史を繰り返さないために、90年にわたる患者さん達への差別の実態を資料として残しておくことでした。それで、退院してすぐにハンセン病の資料館を造る運動を始めたのです。幸い多くの皆様の御協力を得て、平成5年(1993年)に「高松宮記念ハンセン病資料館」が東村山市に完成し、新聞やテレビにも取り上げられました。おかげで「らい予防法」の廃止の運動も進むことになったのです。

 さまざまな話し合いを経て、1996年(平成8年)には「らい予防法廃止の法律」を制定し、国は療養所の範囲においてですが患者さんの一生を保障することを約束しました。

 しかし保障はされても、過去の人権侵害の責任にまで踏み込んでいませんでした。それで2年後、初めはたった13人の元患者さんが集まって裁判を起こしたのです。この裁判で、私は元厚生省局長として、被告側、原告側両方の立場から証言を求められて「らい予防法は誤りだった」と証言しました。元厚生省幹部として道義的責任を心中で自問自答しながらのつらい証言でした。

 今回、政府と国会が断罪されましたが、それらを構成する一人ひとりが国民の人権をどう見ているかがしっかり問われなければ、この問題は終わらないと思います。単に「感染力が弱い病気だということを見誤ったから、政府がまちがっていました」というような技術的な見方だけでは、ハンセン病問題の真の解決はあり得ません。

 さらに言えば、施設に閉じ込められたり、外出をこっそりしていた患者さんを見ているだけだった医療従事者はどうか、戦後、人権問題を扱ってきた専門家はこの事態をどう見ていたのか。マスコミは疑問を呈したのか。私も含め、もっといろいろな分野の人が考えなくてはいけないはずです。

 90年以上にわたるハンセン病問題の核心部分は、日本の社会が少数者の人権というものを本当に考えていなかったということではないでしょうか。人権というのは、自分の人権のことだけではありません。他者の人権が自分と同じように守られているかを考えるのが、本当に人権を考えるということではないかと思うのです。誰も患者の人権に疑問を持たなかったということが、ハンセン病問題における真の問題点ではないでしょうか。

 私は「らい予防法」廃止直後に「らい予防法廃止の歴史」という本を書きました。その最後の第5章は”終わりの始まり“というタイトルになっています。らい予防法は廃止されたけれど、これからが始まりだと。なぜ、こんなことが起こったか、どうしてこんなことを見逃してきたのかを、責任者、関係者はもとより国民みんなが考え、追究し、反省しなければいけないという私の気持ちを書いたものです。今年、元患者側の全面勝訴という形でハンセン病の裁判が終わりました。しかしながら、今、”終わりの始まり“であるという思いは、ますます強くなっています。

【ハンセン病】

 1873年にらい菌を発見したノルウェーの医師アルマウェル・ハンセン氏にちなんで、この病名が付けられた。
日本では「らい病」と呼ばれて恐れられ嫌われてきたが、長年の偏見や差別を解消し、正しい認識を持ってほしいという願いから、1996年の「らい予防法」廃止後、ハンセン病と改められた。

ハンセン病はらい菌による慢性の感染症であるが、その感染力は非常に弱く、結核菌よりも弱い。抵抗力の弱い乳幼児期に、治療を行っていない保菌者とくり返し接触をしなければ感染することはない。もし、発病しても適切な治療により完治する。

症状としては主に末梢神経が冒されて、知覚・運動障害が現れたり、皮膚そのものの組織が侵されて、皮膚等の変色が見られる。病気自体は完治しても、知覚障害によって手や足に障害が起きたり、視力を失うなど、後遺症が残ることがある。

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